集会祈願
全能の神よ、あなたは、きょう御ひとり子によって死を打ち砕き、永遠のいのちの門を開いてくださいました。主イエスの復活を記念し、この神秘にあずかる私たちを、あなたの霊によって新たにし、永遠のいのちに復活させてください。聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。
🌸 第一朗読 (使徒言行録10.34a、37-43)
34そこで、ペトロは口を開きこう言った。37あなたがたはこのことをご存じでしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。 38つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。 39わたしたちは、イエスがユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさったことすべての証人です。人々はイエスを木にかけて殺してしまいましたが、 40神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。 41しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、御一緒に食事をしたわたしたちに対してです。 42そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。 43また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。」
🌸 答唱詩編 詩編118 典87①②③
答:きょうこそ神が造られた日、
喜び歌え、この日をともに。
恵み深い神に感謝せよ。
そのあわれみは永遠。
イスラエルよ、叫べ。
神の慈しみは絶えることがない。 【答】
神の右の手は高く上がり、
その右の手は力を示す。
私は死なず、私は生きる、
神のわざを告げるために。 【答】
家造りの捨てた石が
隅の親石となった。
これは神のわざ、
人の目には不思議なこと。 【答】
🌸 第二朗読 (コロサイ3.1-4)
1〔皆さん、〕あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。 2上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。 3あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。 4あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。
または一コリント5.6b-8
6〔皆さん、〕わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。 7いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。 8だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。
アレルヤ唱 典266(主の復活)
アレルヤ、アレルヤ。わたしたちの過越、キリストはほふられた。主のうちにともに喜び楽しもう。アレルヤ、アレルヤ。
🌸 福音朗読 (ヨハネ20.1-9)
ヨハネによる福音
1週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。 2そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」 3そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。 4二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。 5身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。 6続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。 7イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。 8それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。 9イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。
奉納祈願
いつくしみ深い神よ、復活祭の喜びに満たされて、この供えものをささげます。御子の救いのわざによって教会が新たにされ、つよめられますように。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。
拝領祈願
恵み豊かな神よ、あなたの教会をいつもお守りください。教会が、御子キリストの死と復活の神秘によって新たにされ、復活の栄光に達することができますように。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。
🌸 分かち合い
まだ寒さの厳しい2月の半ばに始まった四旬節、そして、先週からの聖週間が終わり、ようやく復活祭を迎えるときになりました。自然は、まさに春爛漫のときですが、コロナの影響は相変わらず世界を覆い、感染防止対策をしっかりとった上でのお祝いですが、こうしてミサを共に捧げることができる恵みに感謝いたしましょう。
あの十字架上で悲惨な最期を遂げられた主イエスが復活なさって生きておられると言う確信は、まさにキリスト教信仰の原点です。しかし、イエスの教えに関心を示し、さらには共鳴する人の中にも、復活はわからない、信じられないという人は少なくありません。それは、おそらく、イエス時代の人々、そして、イエスに従った弟子たちにも言えることでした。あれほど、人々の心を動かし、希望を持たせ、力づけた先生が、あのような無残な最期を遂げられたことは、イエスに従った弟子たちにとって、まさにどん底の経験でした。そのイエスが復活して生きておられるなど、とても信じることができなかったとしても非難することはできません。
今読まれた、イエスの復活について記すヨハネ福音書にも、そうした弟子たちの状況がよく表れています。今日の箇所には、イエスが葬られた墓に出かけたマグダラのマリア、そして、ペトロともう一人の弟子が登場します。マグダラのマリアは、「朝早く、まだ暗いうちに、墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た」と記されています。イエスへの篤い思いから、だれよりも早く、暗いうちに、イエスの遺体を納めた墓に詣でたのです。しかし、墓の入口には、大きな石がころがしてあり、女手一つでは、とうてい動かすことのできるものではありません。しかし、不思議なことに、その石が取りのけてあるのを見たのです。そして、すぐに、遺体がないことに気づいたのでしょうか、ペトロともう一人の弟子のところに走って行って「主が墓から取り去られた」と告げます。マリアは、イエスの復活に思いが及んだわけではありません。まだ、古い世界、死者の世界にとどまったままです。だから、遺体が「どこに置かれているのか、わたしたちにはわかりません」と言います。
マリアから、知らせを受けたペトロともう一人の弟子も墓へ急行します。先についたもう一人の弟子は、ペトロを先に墓に通します。ペトロは、イエスの遺体を包んでいた亜麻布と頭を包んでいた覆いを見ますが、もうひとりの弟子は、「墓に入って、見て、信じた」とヨハネは書きます。この弟子は、他の弟子に勝って、深い霊的な洞察力に恵まれていたようですが、果たして、彼は、イエスが復活なさったことをその瞬間、すべて悟ったのでしょうか。決してそうではなさそうです。なぜなら、すぐにその後で、「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」とヨハネ付け加えています。
信じることと、理解すること、わかることは違います。
人間は、通常でない経験をすると、ついなぜそうなるのか、知ろうとします。原因を理解しようとします、意味をわかろうとします。しかし、すべてのことがわかるわけではありません。災害、病気、出会い等、人間にはわからないことが無数にあります。それでも、何とかそれを受け入れ、それに直面しようとします。それは、人間には、何らかの信じる力があるからでしょう。
キリスト教信仰についても、同じことが言えるでしょう。神が人となる受肉(託身)の神秘、十字架で亡くなったイエスが復活されたという復活の神秘、また、神ご自身の命、三位一体の神秘、これは、すべて人間が理性の力で完全に理解できるものではありません。もちろん、それについて学ぶことで、信仰が深められることはあります。同時に、信じることによって、理解が深められることも事実です。「よく理解するために わたしは信じる」(Credo ut intelligam)とある教父は言いました。復活についても、信じることによって、それは、自分の努力や学びによってではなく、神からの恵みによって、いわば、信じさせていただくことによって受け入れられる、わかるということではないかと思います。「もうひとりの弟子」、「イエスが愛しておられた弟子」は、そのような信じる恵みが与えられていたのでしょう。
弟子たちの多くは、復活されたイエスに出会う、イエスの出現に恵まれるという特別な体験を通して復活を信じることができました。それは、彼らに続く人々、「見ないで信じる人々」に復活の信仰を伝えるための特別な恵みでした。そうした出会いとともに、聖書の言葉を通して、彼らは復活を確信することができたのです。
使徒たちを通して、彼らの受けた特別な恵みを通して信仰を伝えられ、受け継ぐものとなったわたしたちも、復活への信仰を、祈りを通して、聖書の学びを通して、また、様々な苦しみの中での主の働きを通して、日々深めてゆくことができるよう祈りましょう。特に、今、コロナをはじめ、先の見えない混沌とした世界、あたかも闇の中を歩むかのような現実の中で、復活の主への信仰と、そこから来る真の希望をもって歩んでゆけますよう祈りましょう。(S.T.)