聖ボニファチオ司教殉教者 (記)
集会祈願
信じる者力である神よ、あなたは殉教者の血を、キリスト信者の種としてくださいます。聖カロロとその同志の殉教によって教会が力づけられ、豊な収穫をもたらすことができますように。聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。
🌸 第一朗読 (2テモテ1:1-3、6-12)
使徒パウロのテモテへの手紙
1キリスト・イエスによって与えられる命の約束を宣べ伝えるために、神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから、 2愛する子テモテへ。父である神とわたしたちの主キリスト・イエスからの恵み、憐れみ、そして平和があるように。
3わたしは、昼も夜も祈りの中で絶えずあなたを思い起こし、先祖に倣い清い良心をもって仕えている神に、感謝しています。6そういうわけで、わたしが手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます。 7神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。 8だから、わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください。 9神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ、 10今や、わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされたものです。キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました。 11この福音のために、わたしは宣教者、使徒、教師に任命されました。 12そのために、わたしはこのように苦しみを受けているのですが、それを恥じていません。というのは、わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしにゆだねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです。
🌸 答唱詩編 詩編123 典116①②
答:主は豊かなあがないに満ち、いつくしみ深い。
神よ、わたしは目をあげてあなたを迎ぐ。
あなたの住まいは天にある。
主人の手に目を注ぐしもべのように、
そのぁわれみをわたしたちは待つ。 【答】
栄光は父と子と聖霊に。
初めのように
今もいつも
世々に。アーメン。 【答】
アレルヤ唱
アレルヤ、アレルヤ。わたしは復活であり、いのちである。わたしを信じる人は永遠に死ぬことはない。アレルヤ、アレルヤ。
🌸 福音朗読 (マルコ12:18-27)
マルコによる福音
〔その時、〕18復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスのところへ来て尋ねた。 19「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。 20ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、跡継ぎを残さないで死にました。 21次男がその女を妻にしましたが、跡継ぎを残さないで死に、三男も同様でした。 22こうして、七人とも跡継ぎを残しませんでした。最後にその女も死にました。 23復活の時、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」 24イエスは言われた。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。 25死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。 26死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。 27神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」
奉納祈願
聖なる父よ、この供え者をささげて祈ります。 ウガンダの殉教者が、罪よりも死を選んだように、わたしたちもすべてに越えてあなたを愛し、心からキリストに従うことができますように。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。
拝領祈願
すべてを治められる神よ、殉教者は、聖体の秘跡に力づけられて苦難に打ち勝ちました。主の食卓にあずかった私たちが困難にもひるまず、信仰と愛をあかしすることができますように。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。
🌸 分かち合い
昨日から平日のミサでは、マルコ福音書が読まれるようになった。エルサレムに入ったイエスに色々なグループが論争を挑む。今日は、神殿に仕える司祭階級が属するサドカイ派の挑戦。
テーマは復活。復活はキリスト者にとって信仰の核心、自明のことだが、当時のユダヤ人にとってはそうではなかった。旧約聖書に「復活」の言葉・考えが出るのは捕囚期以後。人間のしあわせと言えば、もっぱら地上で豊かな生活を送り、子々孫々まで見ること。掟を守るのは、まさに、そのためだった。
古い時代のモーセ五書だけを受け入れるサドカイ派の人々は、そこに言及されない復活はないと主張し、ファリサイ派と対立していた。そこで、復活について語るイエスに、難題を吹きかける。すでに、イエスの時代には守られていなかったレビラート(義兄弟)婚の定め(申命記25.5)を持ちだし、亡くなった夫の兄弟と次々に結婚した女は、復活のときに、だれの妻になるかと理屈をこねる。この定めは、どの文化にも見られる「家名」を守るためのものだった。
イエスは、彼らが拠り所とするモーセ五書の一つ、出エジプト記を引き合いに出し、神は「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と言い、神の前に、先祖たちが生きた者であることをはっきりと肯定しているではないか、と反論する。
受け入れたつもりでいる「復活」とそのいのち、聖書の民にとっても受け入れがたく、今なお、多くの人々がつまずく復活について、あらためて深い理解が与えられるよう光を願おう。(S.T.)