神に従う人は信仰によって生きる。
聖ドミニコ司祭
🌸 第一朗読 (ハバクク1・12~2・4)
ハバククの預言
12主よ、あなたは永遠の昔から
わが神、わが聖なる方ではありませんか。
我々は死ぬことはありません。
主よ、あなたは我々を裁くために
彼らを備えられた。
岩なる神よ、あなたは我々を懲らしめるため
彼らを立てられた。
13あなたの目は悪を見るにはあまりに清い。
人の労苦に目を留めながら
捨てて置かれることはない。
それなのになぜ、欺く者に目を留めながら
黙っておられるのですか
神に逆らう者が、自分より正しい者を
呑み込んでいるのに。
14あなたは人間を海の魚のように
治める者もない、這うもののようにされました。
15彼らはすべての人を鉤にかけて釣り上げ
網に入れて引き寄せ、投網を打って集める。
こうして、彼らは喜び躍っています。
16それゆえ、彼らはその網にいけにえをささげ
投網に向かって香をたいています。
これを使って、彼らは豊かな分け前を得
食物に潤うからです。
17だからといって、彼らは絶えず容赦なく
諸国民を殺すために
剣を抜いてもよいのでしょうか。
1わたしは歩哨の部署につき
砦の上に立って見張り
神がわたしに何を語り
わたしの訴えに何と答えられるかを見よう。
2主はわたしに答えて、言われた。
「幻を書き記せ。
走りながらでも読めるように
板の上にはっきりと記せ。
3定められた時のために
もうひとつの幻があるからだ。
それは終わりの時に向かって急ぐ。
人を欺くことはない。
たとえ、遅くなっても、待っておれ。
それは必ず来る、遅れることはない。
4見よ、高慢な者を。
彼の心は正しくありえない。
しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」
🌸 答唱詩編 詩編34 典128③⑤
答: 主を仰ぎ見て、光を受けよう。
主が訪れる人の顔は輝く。
主は貧しい者の叫びを聞き、
悩みの中からすくい出し、
主をおそれる者に使いをおくり、
支えとなってくださる。 【答】
主のまなざしは正しいひとに、
耳は彼らのさけびに。
主は正しい人の声を聴き、
悩みの中から救ってくださる。 【答】
アレルヤ唱 典237(30B)
アレルヤ、アレルヤ。わたしたちの救い主イエス・キリストは死を滅ぼし、福音によって生涯を照らしてくださった。アレルヤ、アレルヤ。
🌸 福音朗読 (マタイ17:14-20)
マタイによる福音
14そのとき、ある人がイエスに近寄り、ひざまずいて、 15言った。「主よ、息子を憐れんでください。てんかんでひどく苦しんでいます。度々火の中や水の中に倒れるのです。 16お弟子たちのところに連れて来ましたが、治すことができませんでした。」 17イエスはお答えになった。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をここに、わたしのところに連れて来なさい。」 18そして、イエスがお叱りになると、悪霊は出て行き、そのとき子供はいやされた。 19弟子たちはひそかにイエスのところに来て、「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と言った。 20イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。
🌸 分かち合い
弟子たちが癒すことのできなかった悪霊につかれた(てんかん)子どもをイエスが癒されたときの話し。弟子たち(12使徒)が宣教に派遣されたとき、悪霊を追い出すこと、病気を癒すことが必ず記されている。福音書の中で、イエスによる癒しの話しはたくさんあるが、弟子たちによるものはほとんどない。イエスの復活の後、聖霊を注がれて、弟子たちは宣教に赴くが、その際、様々な癒しの業を行ったことが、使徒言行録に記されている。
イエスがしたように、イエスの弟子も癒しを行うことができる、と人々が考えても不思議でないが、そうした出来事を通して、何か根本的なことが教えられている。つまり、病気の癒しや悪霊の追放は、神の働きのしるしであって、メシアであるから、イエスの弟子であるから、自動的に可能になるというものではない。神が働くことへの信仰、その一つの表現である祈りがあって、はじめて、神の働きが現実のものとなる。だから、イエスは、「信仰が薄いからだ。からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、ここから、あそこへ移れ」と命じても、そのとおりになる。」と言われる。
マタイの中で、この話は、昨日記念した変容の出来事のすぐ後に置かれている。変容があった山の上=神の世界と、山の下=人間の現実を結びつけるものは、ほかならない信仰であることを教えているとも思われる。マタイの教会、そして現代の教会に求められているのが、まさに信仰だと言えるのではないか。(S.T.)