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教皇の意向:子を失った親 (11月)

年間二十二土曜日(9月5)

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人の子は安息日の主である。

ルカ6:5
集会祈願

???? 第一朗読 (一コリント4:6b-15)

 6〔みなさん、〕わたし自身とアポロとに当てはめて、このように述べてきました。それは、あなたがたがわたしたちの例から、「書かれているもの以上に出ない」ことを学ぶためであり、だれも、一人を持ち上げてほかの一人をないがしろにし、高ぶることがないようにするためです。 7あなたをほかの者たちよりも、優れた者としたのは、だれです。いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか。 8あなたがたは既に満足し、既に大金持ちになっており、わたしたちを抜きにして、勝手に王様になっています。いや実際、王様になっていてくれたらと思います。そうしたら、わたしたちも、あなたがたと一緒に王様になれたはずですから。 9考えてみると、神はわたしたち使徒を、まるで死刑囚のように最後に引き出される者となさいました。わたしたちは世界中に、天使にも人にも、見せ物となったからです。 10わたしたちはキリストのために愚か者となっているが、あなたがたはキリストを信じて賢い者となっています。わたしたちは弱いが、あなたがたは強い。あなたがたは尊敬されているが、わたしたちは侮辱されています。 11今の今までわたしたちは、飢え、渇き、着る物がなく、虐待され、身を寄せる所もなく、 12苦労して自分の手で稼いでいます。侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、 13ののしられては優しい言葉を返しています。今に至るまで、わたしたちは世の屑、すべてのものの滓とされています。
14こんなことを書くのは、あなたがたに恥をかかせるためではなく、愛する自分の子供として諭すためなのです。 15キリストに導く養育係があなたがたに一万人いたとしても、父親が大勢いるわけではない。福音を通し、キリスト・イエスにおいてわたしがあなたがたをもうけたのです。

???? 答唱詩編 詩編145 典18⑧⑨

アレルヤ唱 典269 ㊼

???? 福音朗読 (ルカ6:1-5)

ルカによる福音

 1ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは麦の穂を摘み、手でもんで食べた。 2ファリサイ派のある人々が、「なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか」と言った。 3イエスはお答えになった。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。 4神の家に入り、ただ祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを取って食べ、供の者たちにも与えたではないか。」 5そして、彼らに言われた。「人の子は安息日の主である。」

奉納祈願

拝領祈願

祈る花:Inoruhana

???? 分かち合い

 なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。なぜ、あなたの弟子たちは、断食しないのか。なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのか。これらは主イエスに対するファリサイ派の人々の批判的な質問です。今日の福音で、またファリサイ派の人々は「なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか。」と主イエスに聞きます。ファリサイ派の人々はよくなぜ、どうしてという質問をするのです。

 そういう質問は哲学を勉強したとき、よくあったけれども、ファリサイ派の人々の質問は目的が違います。私たちがなぜという質問をするのは、ものの真実を知りたい、ものの起源が分かるようになりたいからですが、ファリサイ派の人々がそういう質問をするのは、主イエスと弟子たちをただ批判したがっただけだと思います。この態度は主イエスに度々注意されます。例えば、「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである」とか、「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」とか、「あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている」などです。

 ところで、なぜ、安息日にしてはならないことを、弟子たちはしたのでしょうか。弟子たちがファリサイ派の人々に叱られたのは、麦畑で麦の穂を摘んで食べたからではなく、安息日にこのことをしたからです。安息日を守る戒律の深い意志は何でしょうか。弟子たちを守るために、主イエスは人間の必要が儀式の習慣よりも優先されていることを聖書から論じています。ダビデは自分も供の者たちも空腹だったときに、神の家に入り、供えのパンを取って食べました。すべての安息日の朝には十二のパンが、神聖な場所で黄金のテーブルの上に神の前に置かれました。それぞれのパンは、イスラエルの十二部族の一つ一つを表します。 それらは神の存在を表してもいるので、ただ祭司のほかには誰も食べてはなりません。ダビデは、人間の必要性が、ルールや儀式の規則より優先することを理解しました。

 どうしてファリサイ派の人々は規則や規制を超えて、神の憐れみを認識しなかったのでしょうか。儀式を守ろうとする熱意のため、彼らは神のいつくしみを理解することができませんでした。「このパンは私の体である」というイエスの言葉は、天からの真のパンをほのめかしています。このパンは主イエスを信じる者すべてに与えられます。ダビデの息子、人の子である主イエスは、「安息日の主」と自らを宣言されます。主イエスは安息日にお癒しになり、困っている人々に憐れみをお示しになります。疲れた者、重荷を負う者は主イエスに真の休みとリフレッシュメントを見つけることができます。つまり、安息日とは主日、すなわち日曜日だけではなく、いつでも主イエスに会って、休んで、リフレッシュする時だと思います。安息日の休みは神様の善良さと良いわざを思い出して、祝うための時間だと思います。

 人の子は安息日の主である。このみ言葉を聞いた私たちは、このミサの中で主イエスの存在によってリフレッシュすることができるように、神に願いましょう。

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御言葉の典礼を読み続く🌸

聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
どうぞよろしくお願い致します。

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