集会祈願
全能永遠の神よ、御子キリストによって造られたすべてのものは、再び、王であるキリストのうちに集められ、完成されます。主の言葉に希望をおき、主を待ち望むわたしたちが、世の終わりまで朽ちることのない愛に生きることができますように。聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。
🌸 第一朗読 (エゼキエル34.11-12,15-17)
11まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。 12牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。わたしは雲と密雲の日に散らされた群れを、すべての場所から救い出す。15わたしがわたしの群れを養い、憩わせる、と主なる神は言われる。 16わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。しかし、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは公平をもって彼らを養う。17お前たち、わたしの群れよ。主なる神はこう言われる。わたしは羊と羊、雄羊と雄山羊との間を裁く。
🌸 答唱詩編 詩編23 典123 ①③④
答 主はわれらの牧者、
わたしは乏しいことがない。
神はわたしを緑のまきばに伏させ、
いこいの水辺に伴われる。
神はわたしを生き返らせ、
いつくしみによって
正しい道に導かれる。 【答】
あなたははむかう者の前で、
わたしのために会食を整え、
わたしの頭に油を注ぎ、
わたしの杯を満たされる。 【答】
神の恵みといつくしみに
生涯伴われ、
わたしはとこしえに
神の家に生きる 【答】
🌸 第二朗読 (一コリント15.20-26,28)
20〔みなさん、〕キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。 21死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。 22つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。 23ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、 24次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。 25キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。 26最後の敵として、死が滅ぼされます。28すべてが御子に服従するとき、御子自身も、すべてを御自分に服従させてくださった方に服従されます。神がすべてにおいてすべてとなられるためです。
アレルヤ唱 典266 王であるキリスト
アレルヤ、アレルヤ。主の名によって来られるかたに賛美。わたしたちの父、ダビドの国に祝福がありますように。アレルヤ、アレルヤ。
🌸 福音朗読 (マタイ25.31-46)
マタイによる福音
31〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。 32そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、 33羊を右に、山羊を左に置く。 34そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。 35お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、 36裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』 37すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。 38いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。 39いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』 40そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』41それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。 42お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、 43旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』 44すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』 45そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』 46こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」
奉納祈願
あわれみ深い父よ、あなたはひとり子イエスの死と復活によって、万物を和解させてくださいました。この救いの恵みを祝って主の食卓を囲むわたしたちの心に、一致の喜びをあふれさせてください。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。
拝領祈願
恵み豊かな神よ、永遠のいのちの糧に強められて祈ります。天地万物の王であるキリストに従うわたしたちが、あなたの国で尽きることのない喜びを受けることができますように。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。
🌸 分かち合い
今日は典礼年の第34主日であり、最後の日曜日である。来週の日曜日には、待降節第1主日により新しい年が始まる。現在の習慣では、この年の最後の日曜日に、私たちの王であるイエス・キリストの祭日をお祝いする。この1年間、私たちは福音書の朗読を聞き、主日(そして平日)の講話の中で福音書について考えてきた。おそらく、私たち自身の祈りの内省も行ってきたことだろう。今日は、これまで私たちが聞いてきたことのすべてが、どういうわけか要約されている。ガリラヤ、サマリア、ユダヤの町々を巡り、教え、癒し、慰め、解放するイエスを見てきたイエスは、私たちの主であり、王です。私たちのただ中におられる、目に見える神の存在なのだ。
対照的なイメージ
今日の朗読には、対照的な二つのキリスト像が示されている。コリントの信徒への第一の手紙からの第二朗読で、パウロは主であり王であるキリストの力強く素晴らしい姿を示している。アダムの堕落によってすべての人が死んだように、すべての人がキリストにあって生かされるのである。キリストは全能の支配者として示され、他のあらゆる権力や権威は最終的にキリストに引き渡される:
キリストは、すべての敵をその足の下に置くまで治めなければならない。最後に滅ぼされる敵は死である。
キリストは生命を象徴しておられて、その生命はすべて満たされている。そして、その命をすべての人と分かち合いたいと願っておられる。
優しい羊飼い
しかし、他の2つの朗読は、神とその目に見える化身であるイエスについて、まったく異なる姿を示している。第一朗読は、神を羊飼いとして描いている。私たちは、牧草を食べるために丘の斜面に連れてこられた羊が、最良の草を求めて遠くまで歩き回ることを知っている。パレスチナの乾燥した丘陵地帯では特にそうだろう。それだけでなく、同じ丘には他の羊飼いの羊もいて、羊同士が混ざり合ってしまうこともある。羊飼いは、迷子になった自分の羊の世話をし、連れ戻すのにかなりの時間を費やす。
神はご自分をそのような羊飼いとして見ておられる:
見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。
牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、
その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。
わたしは雲と密雲の日に散らされた群れを、
すべての場所から救い出す。
わたしは失われたものを尋ね求め、
追われたものを連れ戻し、
傷ついたものを包み、
弱ったものを強くする。
イエスご自身もこのイメージを取り上げ、自らを「良き羊飼い」と呼ばれるようになる。また、罪人に対する神の配慮を、迷って迷子になった一匹の羊でも探し回るために九十九匹の良い羊を残して行く羊飼いに例えるだろう。
神の偏見
しかし、そう優遇されない者たちもいる:
太った者と強い者をわたしは滅ぼす。わたしは正義をもって彼らを養う。
神は偏っておられる。社会の中で弱い者、貧しい者を搾取する者に対して偏見を持たれる。神にとっての正義とは、道徳的な正しさだけに基づくものではない。むしろ、尊厳と自尊心のある生活に必要であり、利用可能な資源を公平に分かち合い、それを手に入れることに基づいている。
私たちは、紫色の服を着て毎日豪華な食事をしている金持ちのたとえ話を思い出す。彼の食卓の足元には、傷だらけで犬に傷をなめられ、食卓から落ちるパン屑さえ欲しがる貧しい男が座っていた。その金持ちは、定期的に神殿に通い、宗教のすべての祭りと条件を守っていたのだろう。しかし、彼は足元にいる人のために何もしなかった。それが彼の罪だった。そしてそれはある意味、最大の罪なのである。
判断の基準
そして、それこそが今日の福音朗読のポイントである。場面は最後の審判である。ちなみに、これは文字通りの意味で捉えるべきではない。私たちが注目すべきは、この場面の背後にある意味である。私たちと神との出会いが、地上での生活になぞらえた特別な方法で行われると想像するのは、無価値な憶測に過ぎないだろう。また、「特別な」裁きと「一般的な」裁きという区別がなされることがあるが、これは果たして妥当なのだろうか。人の子が天使の群れとともに天の雲に乗って来るというイメージは、神の偉大さと超越性を指し示す聖書の典型的なイメージであり、私たちが期待するような視覚的体験の描写ではない。
裁きを受けに来るのは2種類の人々で、それぞれ「羊」と「山羊」、善人と悪人と表現される。善人と悪人はどのように区別されるのだろうか?イエスが提示した基準に両グループが非常に驚いているのは明らかだ。
まず羊に向かってイエスは言われる:
『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
驚きの反応
羊たちは明らかに驚いている。これは明らかに彼らが期待していた話ではない。羊たちは、これらのことをした覚えがほとんどないような印象を受ける。そして確かに、イエスのためにそのようなことをした覚えはない:
『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
彼らはその答えにさらに驚いたのだろうか?そして王は彼らに答える:
『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
そして、「のろわれた者」と呼ばれる山羊たちに目を向け、上に述べたことを何一つしなかったこと、兄弟姉妹の中にイエスを認めなかったことを非難する。
ここで注目すべきことがいくつかある:
⁂ イエスが述べていることは、どれも宗教的なものではない。
⁂ 戒律を守ること、あるいは違反することについては一切触れられていない。
⁂ 人々が非難されるのは、道徳的に間違った行為をしたからではなく、何もしなかったからである。
⁂ その行為はイエスに対してなされた(あるいはなされなかった)のであって、イエスのためだけになされたのではない。言い換えれば、イエスは私が出会うすべての人の中に本当に存在する。私は、イエスが報いてくださる「善い行い」をして、私の「善い業」の銀行口座に追加するために、その人(あまり関心がないかもしれない)に親切にしているのではない。人を利用することはできない–たとえ霊的な目的のためであっても。
本当に「善い」クリスチャン
まとめると、イエスは、もし私が羊の中に数えられたいのであれば、私の愛に対する反応がどうであれ、積極的に愛する者でなければならない、と言っているのだ。これが神の愛のあり方なのだ。宗教的であろうとなかろうと、義務を果たすだけでは十分ではない。「私は十分なカトリック信者です」と言うだけではだめなのだ。空腹の人、のどが渇いている人、見知らぬ人、貧しい人、裸の人、病気の人、牢獄にいる人など、特に困っている人に対して、私は自分の道を歩み続け、愛の手を差し伸べることが期待されている。彼らがどのようにして病気になったのか(性的に乱れた生活、アルコールやニコチンの過剰摂取による病気…)、なぜ刑務所にいるのか(殺人、レイプ、テロ…)は問題ではない。このような人々は、人生を好転させることを最も必要としているので、特に愛されるべきなのものだ。
この王こそ、私が仕えるべき王なのだ。そして、王が仕えることを望んでおられる方法は、私があらゆる兄弟姉妹への配慮と憐れみで満たされることであり、特に王から最も遠い人々や、王がこの世界を満たしておられる豊かさを体験していない人々への配慮と憐れみで満たされることである。私は、物質的、社会的、心理的、道徳的、霊的に貧しい人々を愛することによって奉仕する。
福音書に描かれている審判の絵は、私たちを恐れと震えで満たすためのものではない。未来ではなく、今日への挑戦なのだ。私が羊の中に数えられることを保証する最も確かな方法は、私が今、愛にあふれ、思いやりがあり、寛容で、受け入れる人間になることである:
主よ、私が今日、すべての人の中に、すべての経験の中に、あなたを探し、見つけ、応えることができるように助けてください。
主よ、私のすべての思い、意向、行動、応答が今日一日、あなたの愛と奉仕にのみ向けられることをお与えください。
Living Spaceより