詩編 132
1 【都に上る歌。】
主よ、御心に留めてください
ダビデがいかに謙虚にふるまったかを。
2 彼は主に誓い
ヤコブの勇者である神に願をかけました。
3 「わたしは決してわたしの家に、天幕に入らず
わたしの寝室に、寝床に上らず
4 わたしの目に眠りを与えず
まぶたにまどろむことを許すまい
5 主のために一つの場所を見いだし
ヤコブの勇者である神のために
神のいますところを定めるまでは。」
6 見よ、わたしたちは聞いた
それがエフラタにとどまっていると。
ヤアルの野でわたしたちはそれを見いだした。
7 わたしたちは主のいます所に行き
御足を置かれる所に向かって伏し拝もう。
8 主よ、立ち上がり
あなたの憩いの地にお進みください
あなた御自身も、そして御力を示す神の箱も。
9 あなたに仕える祭司らは正義を衣としてまとい
あなたの慈しみに生きる人々は
喜びの叫びをあげるでしょう。
10 ダビデはあなたの僕
あなたが油注がれたこの人を
決してお見捨てになりませんように。
11 主はダビデに誓われました。
それはまこと。
思い返されることはありません。
「あなたのもうけた子らの中から
王座を継ぐ者を定める。
12 あなたの子らがわたしの契約と
わたしが教える定めを守るなら
彼らの子らも、永遠に
あなたの王座につく者となる。」
13 主はシオンを選び
そこに住むことを定められました。
14 「これは永遠にわたしの憩いの地。
ここに住むことをわたしは定める。
15 シオンの食糧を豊かに祝福し
乏しい者に飽きるほどのパンを与えよう。
16 祭司らには、救いを衣としてまとわせる。
わたしの慈しみに生きる人は
喜びの叫びを高くあげるであろう。
17 ダビデのために一つの角をそこに芽生えさせる。
わたしが油を注いだ者のために一つの灯を備える。
18 彼の敵には、恥を衣としてまとわせる。
王冠はダビデの上に花開くであろう。」
とはいえ真実に基づき正義を徹底的に貫く!
時に熱くなり徹底的に反駁批判する。
口汚くなっても下品になっても仕方ないときもある。
主イエスだってヘロデをキツネと呼び、ウンチとは言わなかったかも知らんがカワヤや便所ぐらいのことは言った
(マルコ7章19節につき「新共同訳、口語訳が『外』へ出されるなどの訳語を与えているのは、婉曲すぎて不適。」佐藤研ほか訳『新約聖書』岩波書店2004年)。
下品か上品かではなく、下品でも品があればよい、
という趣旨のことを、先頃帰天された鈴木邦男氏の記事を毎日新聞の日曜版に書いた松尾貴史さんが、以前ラジオで言っていた、と思う。
今日2月11日は建国記念の日でありルルドの日だ。日本にだって「ベルナデッタ」とその相棒はいるだろうし、欧米にだって「明治天皇」とその相棒がいるだろう。
汚い!と言われれば、すかさず北がなければ日本三角!と叫びたい。
東西南北上下左右先後云々を問わず、言論のテッポウ玉が無鉄砲に飛び交う自由な空間と時間を確保しつつ、それに疲れたらサバティカルに入れる、そんな国にぼくは住みたい。
佐藤研師は確か愛宮真備師の本を翻訳されていた。
愛宮真備師はリーゼンフーバー師に禅を教えた。リーゼンフーバー師は、ぼくに禅を教えてくれた二人目か三人目の師匠だ。
赤ん坊の頃、股関節脱臼をやったのでうまく座れず、ぼくの禅はヘボ禅だが、しばらく通った地元禅寺の近所で今日、と言っても日付が変わってしまったので昨日、一人の老人が行方不明になったが数時間後、無事発見された。
そう言えば、その地元禅寺に昔、隠れキリシタンがいたことを最近知った。
「人間を探す神」
例の立派なお髭のユダヤ教の老神学者の本のタイトルだったと思う。
2月10日コメントを書いて2月10日の詩編32を読んだ。
まさにこれだ。
世に反発反論しては迷うだけ。
御前に立ち帰らなくては。