労働者聖ヨセフ
集会祈願
🌸 第一朗読 (使徒言行録11.1-18)
1〔その日、〕使徒たちとユダヤにいる兄弟たちは、異邦人も神の言葉を受け入れたことを耳にした。 2ペトロがエルサレムに上って来たとき、割礼を受けている者たちは彼を非難して、 3「あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした」と言った。 4そこで、ペトロは事の次第を順序正しく説明し始めた。 5「わたしがヤッファの町にいて祈っていると、我を忘れたようになって幻を見ました。大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、天からわたしのところまで下りて来たのです。 6その中をよく見ると、地上の獣、野獣、這うもの、空の鳥などが入っていました。 7そして、『ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい』と言う声を聞きましたが、 8わたしは言いました。『主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は口にしたことがありません。』 9すると、『神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない』と、再び天から声が返って来ました。 10こういうことが三度あって、また全部の物が天に引き上げられてしまいました。 11そのとき、カイサリアからわたしのところに差し向けられた三人の人が、わたしたちのいた家に到着しました。 12すると、“霊”がわたしに、『ためらわないで一緒に行きなさい』と言われました。ここにいる六人の兄弟も一緒に来て、わたしたちはその人の家に入ったのです。 13彼は、自分の家に天使が立っているのを見たこと、また、その天使が、こう告げたことを話してくれました。『ヤッファに人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。 14あなたと家族の者すべてを救う言葉をあなたに話してくれる。』 15わたしが話しだすと、聖霊が最初わたしたちの上に降ったように、彼らの上にも降ったのです。 16そのとき、わたしは、『ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは聖霊によって洗礼を受ける』と言っておられた主の言葉を思い出しました。 17こうして、主イエス・キリストを信じるようになったわたしたちに与えてくださったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら、わたしのような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることができたでしょうか。」 18この言葉を聞いて人々は静まり、「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」と言って、神を賛美した。
🌸 答唱詩編 詩編42 典144 ①②③、⑥⑦⑧
アレルヤ唱 典
🌸 福音朗読 (ヨハネ10.1-10)
ヨハネによる福音
〔そのとき、イエスは言われた。〕「11わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。 12羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。―― 13彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。 14わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。 15それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。 16わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。 17わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。 18だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」
奉納祈願
拝領祈願
🌸 分かち合い
昨日読まれた福音に続く、実は、その前におかれた「羊飼い」の話。ここでは、「羊飼い」と「羊の門」のたとえが錯綜しているが、あまり細部にとらわれずに考えたい。
イエスは「わたしは羊の門である」と言う。羊の世話を任された羊飼いは、朝、羊を囲いから出して牧草地に連れてゆき、夜、囲いに連れ戻るのに、門を開いて羊を通す。イエスは、自らを、そのような「門」にたとえて、「わたしを通って入る者は救われる」、と言う。
14章の晩餐での説教の中に、似た考えがあるが、覚えておられるだろうか。「わたしは道である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」。
「まことの命」に通じる門、そして、道、それがイエスである。イエスの前に、また、後に、門を通らずに囲いに入ろうとするものがいる。イエスの説教を受け入れ、信じようとしないユダヤ人、教会の時代にあっても、福音を告げる弟子たちの言葉を受け入れようとしない人々、彼らは、まことの命への門を通らず、厳しい律法、またそこから細分化された規則の遵守にこだわり、人々を遠ざけようとする。
今日の第一朗読(使徒言行録11章)で読まれた、異邦人に門が開かれた話は、まさに、それを意味しているのではないか。イエスは、かつて罪びとや異邦人を拒んだ古い門に代わる、すべての人に開かれた「新しい門」であると言ってよいのではないか。
わたしたちも、どこかで、イエスと異なる門を築いて、人々を遠ざけていないだろうか。(S.T.)
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今日、5月1日は、任意の「労働者聖ヨセフの記念日」と定められていますが、広島教区の白浜司教は、新型コロナ感染症の感染拡大の状況を踏まえて、本日、5月1日に「労働者聖ヨセフ」のミサを捧げ、明日、5月2日(復活節第五の主日)のミサでは、ヨセフの取次ぎを願って祈るよう、勧めておられます。
ご存じのように、聖マリアの力強い支え手になるよう選ばれた聖ヨセフは、今日のヨハネ福音で読まれたような、父と一体でありながら、人となられた御子イエスの神秘を深く心に刻み、日々の厳しい仕事を通して、また思いがけない出来事の中で、常に神のみ旨に従い、御子イエスと母マリアを保護し、奉仕する生活に徹し、静かに舞台から去って行かれた方です。
昨年12月、「ヨセフ年」の始まりにあたって発表された書簡『父の心で』の中で、教皇フランシスコは、パンデミックが進む日々に抱かれた思いとして書いておられます。「わたしたちの生活は市井の人々-忘れられがちな人々―によって織りなされ、支えられています。・・・そうした人々は、新聞や雑誌の見出しになったり、最新のランウェイに登場することはなくとも、まぎれもなく、この時代の決定的な出来事を今まさに書きつけているのです。医師、看護師、スーパーマーケットの従業員、清掃員、鍵従事者、配達員、治安当局、ボランティア、司祭、修道者、そして他の多くの、自分だけの力だけで自分を救うことはできないと分かっている人々です。・・・どれほど多くの人が、毎日辛抱し、希望を奮い立たせ、パニックではなく共同責任の種を蒔くよう心掛けていることでしょう。どれほど多くの父親、祖父、祖母、教師らが、習慣を変え、前向きになり、祈りを重ねるといった、何気ない日常の姿を通して、危機に向き合ってそれを乗り切る方法を子どもたちに示していることでしょう。どれほど多くの人が祈り、犠牲をささげ、すべての人のためにとりなしていることでしょう」と。
そして、だれもが、このような「目立たない人、普通で、物静かで、地味な姿の人」であった聖ヨセフに、「困難な時の執り成し手、支え手、導き手を見出すはずだ」、と言われます。こうしたフランシスコ教皇の思いに合わせて、コロナ禍で、様々な困難に出会っている人々に、聖ヨセフの取次ぎによって必要な支援の手が差し伸べられ、感染が一日も早く終息するよう祈りましょう。(S.T.)