集会祈願
いのちの源である神よ、わたしたちが愛に生きようとするとき、あなたはわたしたちとともにいてくださいます。週の初めの日に主キリストの復活を祝うわたしたちが、愛のおきてのうちにまことの喜びを見いだすことができますように。聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。
🌸 第一朗読 (使徒言行録10.25-26、34-35、44-48)
25ペトロが〔カイサリアに〕〕来ると、コルネリウスは迎えに出て、足もとにひれ伏して拝んだ。 26ペトロは彼を起こして言った。「お立ちください。わたしもただの人間です。」
34そこで、ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。 35どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。
44ペトロがこれらのことをなおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った。 45割礼を受けている信者で、ペトロと一緒に来た人は皆、聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれるのを見て、大いに驚いた。 46異邦人が異言を話し、また神を賛美しているのを、聞いたからである。そこでペトロは、 47「わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったいだれが妨げることができますか」と言った。 48そして、イエス・キリストの名によって洗礼を受けるようにと、その人たちに命じた。それから、コルネリウスたちは、ペトロになお数日滞在するようにと願った。
🌸 答唱詩編 詩編98 典149 ①②④
答 遠く地の果てまで、
すべての者が神の救いを見た。
新しい歌を神にうたえ、
神は不思議なわざを行われた。
神の偉大な右の手、
そのとうとい腕は救いの力。 【答】
神は救いをしめし、
諸国の民に正義を現わされた。
いつくしみとまことをもって、
イスラエルに心を留めれれる。 【答】
ラッパと角笛を吹き、
神の前で喜びの声をあげよ。
世界とそこに住む者は、
神の前に喜び歌え。 【答】
🌸 第二朗読 (一ヨハネ4.7-10)
7愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。 8愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。 9神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。 10わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。
アレルヤ唱 典264 (第六主日)
アレルヤ、アレルヤ。わたしを愛する人はわたしのことばを守る。わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のもとに行く。アレルヤ、アレルヤ。
🌸 福音朗読 (ヨハネ15.9-17)
ヨハネによる福音
9〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。 10わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
11これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。 12わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。 13友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。 14わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。 15もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。 16あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。 17互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」
奉納祈願
恵み深い父よ、ひとり子イエスは、すべての人の友となられ、ご自分の命まで差し出す愛を示してくださいました。この秘跡をとおしてわたしたちがキリストの心に結ばれますように。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。
拝領祈願
全能の神よ、永遠のいのちの糧に強められて祈ります。わたしたちの内におられるキリストに支えられ、日々、愛と喜びをもって生きることができますように。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。
🌸 分かち合い
4月初めに始まった復活節ですが、今日は第六の主日、来週は主の昇天の祭日、そして、聖霊降臨の主日と続きます。今日の福音は先週の「ぶどうの木のたとえ」に続く最後の晩餐でのイエスの説教の中心部分、いわば、クライマックスともいえる大事な部分です。
「ぶどうの木のたとえ」では、ぶどうの枝が木につながっていなければ実を結ばないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ばない、と言われました。そして、わたしにつながるとは、イエスの愛につながり、とどまることで、それこそが、イエスの弟子たちが何よりも大事にしなければならない掟であると説かれます。
そして、今日の箇所で、それでは、そもそもイエスの愛とは何か、という話になります。それは、かいつまんで言えば、一つには、イエスが弟子たちを多くの人々の中から選ばれたことです。「わたしがあなたがたを選んだ」と言われます。聖書の中には、選びの話がよく出ます。アブラハム、モーセ、ダビデ、いずれも神から大きな使命を受けて選ばれました。イエスの弟子たちも選びの恵みを受けて、派遣されます。それは、決して彼らが特別に優秀だったからではありません。むしろ、弱さや欠点に満ちた不完全な人間ばかりです。しかし、そのような人間でも、「出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」と言われます。
しかし、同じ選びを受けても、イエスの弟子たちは、旧約の人物たちと決定的に違うところがあります。それは、イエスが自らの最も深い思い、望み、考え、そして、真実を彼らに知らせ、惜しみなく彼らと分かち合われたからです。「わたしは父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせた」と言われます。だれも見ることも聞くこともできない父なる神について、父の子である方のほか、だれがふさわしく語ることができましょう。だから、イエスから親しく教えられたものは、僕(ひたすら主人のために働く奴隷)ではなく、友(愛する者、愛されたもの)と呼ばれるのです。
さらに、イエスの弟子が「友」と呼ばれる決定的な要因は、弟子たちのため、イエスを信じるすべての人のために、自らを人々の手に渡し、十字架上で自分の命を捧げられたたからです。「友のため(愛するもののため)に自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」という言葉は、当時、すでに使われていた言葉のようですが、それは、まさに、イエスの生涯を言い当てた言葉です。
そのようなイエスの愛に、愛をもって応えること、それは、イエスから愛された兄弟を、同じ愛で受け入れること、つまり、互いに愛し合うこと、これこそがイエスの与える掟、イエスが定める命令だと言われます。それは、今日の第二朗読のヨハネの手紙の中にも、現れています。「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているのです。・・・神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました、その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました」と。
素晴らしい教えです。福音の、そして、キリスト教の神髄を伝える教えと言ってよいかもしれません。何度もお聞きになったこと、聞きなれた言葉でしょう。しかし、時々、このような言葉はわたしたちの耳にうつろに響きます。何の感動も呼び覚まさない、平板な言葉に聞こえるかもしれません。それは、わたしたちの心の中に、そのような愛がないからかもしれません。どこかで、それを求め、それに憧れていながら、それが得られずにいるからです。心のどこかで、そのような愛はいらない、そのような愛は自分とは関係がない、あまりにきれいすぎて、自分とはかけ離れた世界のことだと感じているからかもしれません。
わたしたち人間が無意識のうちに追い求めているのは、力であり、名声であり、富です。そのような目に見えるものでなければ自分を動かすことはできないと感じているかもしれません。イエスにおいて現れた神の愛、それは、わたしたち自身が小さなもの、無力なもの、何も知らない愚かなものだと気づいたとき、はじめて、自分にとって意味のあるものと思えてくるのかもしれません。自らを低くして、己の貧しさを認め、へりくだって教えを学ぼうとするとき、少しずつ、見えてくる世界なのでしょう。イエスにおいて現れた神の愛に自らを開き、日々出会う兄弟をこころのそこから受け入れ、愛する恵みを願いながら、ミサを続けましょう。(S.T.)