集会祈願
全能永遠の神よ、あなたは人類にへりくだりを教えるために、救い主が人となり、十字架をになうようにお定めになりました。私たちが、主とともに苦しみを耐えることによって、復活の喜びをともにすることができますように。聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。
🌸 第一朗読 (イザヤ50.4-7)
4主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え
疲れた人を励ますように
言葉を呼び覚ましてくださる。
朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし
弟子として聞き従うようにしてくださる。
5主なる神はわたしの耳を開かれた。
わたしは逆らわず、退かなかった。
6打とうとする者には背中をまかせ
ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。
顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。
7主なる神が助けてくださるから
わたしはそれを嘲りとは思わない。
わたしは顔を硬い石のようにする。
わたしは知っている
わたしが辱められることはない、と。
🌸 答唱詩編 詩編22 典176 ①②③④
答 わたしの神、わたしの神、
どうしてわつぃを見捨てられるのか。
わたしを見る者はみなあざ笑い、
わたしをののしって言う。
彼は神を頼みとした。神が救いに来ればよい。
神が彼をこころにかけているのなら、
救い出せばよい。 【答】
犬がわたしを取り囲み、
悪を行う者の群れが迫り、
わたしの手足を引き裂いた。
わたしはさらしものにされ、
彼らはわたしを見つめる。【答】
彼らはわたしの衣を分け合い、
着物をくじ引きにした。
神よ、わたしから遠く離れず、
急いで助けに来てください。 【答】
わたしはあなたの名を兄弟に告げ、
そのつどいの中であなたをたたえ、
ヤコブの子孫はみな神をほめよ。
イスラエルの子孫はみな神を恐れよ。 【答】
🌸 第二朗読 (フィリピ2.6-11)
6イエス・キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 7かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、 8へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。 9このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。 10こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、 11すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。
アレルヤ唱 典317
🌸 福音朗読 (マルコ15.1-39)
マルコによる福音
1夜が明けるとすぐ、祭司長たちは、長老や律法学者たちと共に、つまり最高法院全体で相談した後、イエスを縛って引いて行き、ピラトに渡した。 2ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と答えられた。 3そこで祭司長たちが、いろいろとイエスを訴えた。 4ピラトが再び尋問した。「何も答えないのか。彼らがあのようにお前を訴えているのに。」 5しかし、イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った。
6ところで、祭りの度ごとに、ピラトは人々が願い出る囚人を一人釈放していた。 7さて、暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒たちの中に、バラバという男がいた。 8群衆が押しかけて来て、いつものようにしてほしいと要求し始めた。 9そこで、ピラトは、「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」と言った。 10祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。 11祭司長たちは、バラバの方を釈放してもらうように群衆を扇動した。 12そこで、ピラトは改めて、「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」と言った。 13群衆はまた叫んだ。「十字架につけろ。」 14ピラトは言った。「いったいどんな悪事を働いたというのか。」群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び立てた。 15ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。
16兵士たちは、官邸、すなわち総督官邸の中に、イエスを引いて行き、部隊の全員を呼び集めた。 17そして、イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、 18「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼し始めた。 19また何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。 20このようにイエスを侮辱したあげく、紫の服を脱がせて元の服を着せた。そして、十字架につけるために外へ引き出した。
21そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。 22そして、イエスをゴルゴタという所――その意味は「されこうべの場所」――に連れて行った。 23没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった。 24それから、兵士たちはイエスを十字架につけて、
その服を分け合った、
だれが何を取るかをくじ引きで決めてから。
25イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。 26罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。 27また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。 28† 29そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、 30十字架から降りて自分を救ってみろ。」 31同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。 32メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。
33昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。 34三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 35そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。 36ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。 37しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。 38すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。 39百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。
奉納祈願
いつくしみ深い神よ、御ひとり子の受難によってわたしたちをおゆるし下さい。わたしたちの力では得ることのできないこの恵みを、十字架のいけにえによって豊かにいただくことができますように。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。
拝領祈願
いのちの糧でわたしたちを強めてくださった神よ、あなたは、ひとり子の死によって信じる者に希望を与えて下さいました。御子の復活によってわたしたちが、望みの地に達することができますように。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。
🌸 分かち合い
マルコ15.1∼39、イザヤ50.4∼7、フィリッピ2.5∼11
2月の半ばから四旬節に入り、復活祭に向けての準備を重ねてきましたが、いよいよ今日から受難の週間(聖週間)に入ります。今日の受難の主日は、「枝の主日」と呼ばれ、主イエスがエルサレムに入られたときの状況を思い起こす枝の式や行列を行っていました。聖堂に入られる時、お取りになった枝をお持ちになり、主が受難の前に人々から熱狂的な歓迎を受けられたことの意味を黙想いたしましょう。
今日の典礼の中心は、言うまでもなく主イエスの尊い受難の記念です。今年はB年でマルコ福音から、しかも、短い形で受難が朗読されました。朗読は、司式司祭、語り手、他の人物、そして、群衆の部分を唱える会衆の皆さまによって読まれました。あらためて受難の朗読を振り返ってみますと、いろいろなことにお気づきになられたと思いますが、一つは、マルコが記す受難の中で、主イエスは、十字架上で詩編の言葉を唱えられた後、大声で叫ばれた以外は、終始、沈黙を守られたということです。耐え難い苦しみと辱めの中で、沈黙を守ると言うことは何を意味するのでしょうか。わたしたちの人生の中で、突然襲ってくる病気や災いの中で、わたしたちは、どのような態度でそれを受け止めているでしょうか。
今日の箇所で、もう一つ目立つ存在は、当時、エルサレムを含む地域一帯に対して、ローマ皇帝に次ぐ支配権を持っていた総督ピラトです。ピラトは、ユダヤ人指導者たちの訴えを受けてイエスに尋問し、彼が帝国に対して何の脅威でもないことを知り、釈放するつもりでいましたが、イエスを亡き者にしようと叫ぶ群衆の声に怯え、ついにイエスを十字架に付けるために鞭打ってから、兵士たちに引き渡します。はたして、わたしたちはしっかりした信念をもたないまま、時の流れに身を任せ、信仰からくる喜びを味わうことなく生きていないでしょうか。
受難の場面にほとんど姿をあらわさないのは、あれほどイエスに愛された弟子たちです。イエスが捕らえられたとき、「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」(14.50)とマルコは、すでに記しています。一番大事な時、自分たちの忠実を言葉で、行動で表すべき時に、弟子たちは、見事に姿を隠してしまったのです。弟子たちの頭であるペトロは、ひそかにイエスの後を追って、大祭司の屋敷に忍び込みますが、女中たちに見とがめられた時、三度にわたって、「そんな人は知らない」と言ってのけたのです。自分の信仰を、信条を人々の前で明らかにすべき時、わたしたちはどれだけ勇気ある行動をとったでしょうか。先輩キリシタン殉教者たちの態度から学ぶべきことはないでしょうか。
そんな弟子たちとは対照的に、強いられてイエスの十字架を担ったシレネのシモン、十字架上で息を引き取られたイエスの姿を見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った百人隊長は何を物語っているのでしょうか。
今日は、主の受難の事実を客観的に跡付けるための日ではありません。それは、いつでも、時間さえあればできることです。今日、教会に集い、受難の記念を行うわたしたちは、はたして、こうした主の苦しみを前にして、自分はいったいどこにいるのだろうかを、考える時ではないでしょうか。弟子たちのように、いざという時には、身の安全を第一に考え、巧みに姿を消す、そのような生き方をしていないでしょうか。たとえ、面倒に巻き込まれたくない、そのために今、ここにいるのではない、という思いがありながら、目の前の困っている人のために手を差し伸べるシモンになっているでしょうか。人々の声、大きな声、時の流れ、多数派、そうして群衆の中の一人として、いつも流れに身を任せ、自分の意志をもち、それを貫く勇気を持たずに生きていないでしょうか。いつも正論を吐きながら、弱さの中に自らを現わされ、真の神の姿を知らせようとなさる神の思いを無にする祭司長や律法学者のような、危険を一切身に受けようとしない安全地帯に身をおいていないでしょうか。耐え難い苦しみの中で、ひたすら沈黙を守られた主のみ前で、ありのままの自分を認め、受け入れる光をこい願いましょう。
しかし、マルコ福音書が、主イエスの受難の後、その結びに記していることも思い起こしましょう。復活されたイエスは、弟子たちの不信仰をお咎めになりながらも、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」と言われ、あの弱さに満ちた弟子たちに、また、三度までイエスを否んだペトロに大きな使命をお与えになりました。また、遠くに立って見守ることしかできなかった婦人たちに、まず、弟子たちに先んじて復活のメッセージを伝える役をお与えになりました。
「キリストは、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」(フィリッピ2.8∼9)人間の弱さを含む苦しみを通して、主が栄光に入り、わたしたち信じる者に同じ恵みを与えてくださることを感謝しながら、主の苦しみを記念する聖週間を一層熱心な心で過ごし、喜びのうちに復活祭を迎えることができるようお祈りいたしましょう。(S.T.)