集会祈願
🌸 第一朗読 (エゼキエル12:1-12)
1主の言葉がわたしに臨んだ。 2「人の子よ、あなたは反逆の家の中に住んでいる。彼らは見る目を持っていながら見ず、聞く耳を持っていながら聞かない。まことに彼らは反逆の家である。 3それゆえ、人の子よ、あなたは捕囚の荷物を造り、白昼彼らの目の前で捕らわれの身となって行きなさい。あなたのいる所から他の場所へ、彼らの目の前で捕らわれの身となって行きなさい。彼らは反逆の家であるが、あるいは、それに目を留めるかもしれない。 4あなたは、白昼彼らの目の前で、自分の荷物を、捕囚の荷物として持ち出しなさい。また、夕方彼らの目の前で捕囚の民が出て行くように、出て行きなさい。 5彼らの目の前で、壁に穴をうがち、そこから荷物を運び出しなさい。 6彼らの目の前で、荷物を肩に担ぎ、暗闇の中で運び出しなさい。顔を覆ってこの土地を見ないようにしなさい。わたしはあなたを、イスラエルの家に対するしるしとする。」 7わたしは命じられたとおりに行った。わたしは、白昼彼らの目の前で、自分の荷物を捕囚の荷物として運び出し、夕方、手で壁に穴をうがち、暗闇の中で肩に担いで運び出した。
8朝になって、主の言葉がわたしに臨んだ。 9「人の子よ、反逆の家、イスラエルの家は、あなたに向かって、『何をしているのか』と尋ねなかったか。 10あなたは、彼らに言わねばならない。主なる神はこう言われる。この託宣は、エルサレムの首長と、そこにいるイスラエルの家すべてにかかわる。 11あなたは言わねばならない。『わたしは、あなたたちのためのしるしである。わたしがやって見せたようなことが、彼らに起こる。彼らは捕囚として、捕囚の地へ行く。 12彼らの中の首長も、暗闇の中で荷物を肩に担ぎ、壁に運び出すための穴をうがって出て行く。彼は目でこの土地を見ないように顔を覆う。』
🌸 答唱詩編 詩編78 典59②a②b
アレルヤ唱 典
🌸 福音朗読 (マタイ18:21~19:1)
マタイによる福音
21そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」 22イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。 23そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。 24決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。 25しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。 26家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。 27その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。 28ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。 29仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。 30しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。 31仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。 32そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。 33わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』 34そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。 35あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」
1イエスはこれらの言葉を語り終えると、ガリラヤを去り、ヨルダン川の向こう側のユダヤ地方に行かれた。
奉納祈願
拝領祈願
🌸 分かち合い
共同体についてのイエスの教えの頂点とも言えるのが、今読まれた「ゆるし」のおしえ。ペトロの何回まで赦すべきか、という問いに対して、イエスは「七の七十倍まで」と答える。文字通りの数字ではなく、限りなく、という意味であろう。それを聞いて、ペトロはどう思ったであろう。
人間にとって、ゆるしがどれほど難しいことが、それをわからせるため、さらには、神のゆるしがどれほど大きなものであるかを教えるために、イエスはたとえを語られた。そこには、あくまで、小事にこだわり、ゆるそうとしない人間と、人間の想像を超えたゆるしの心に満ちた神の愛が対比されている。
これを聞くと、キリスト教の教えは甘い、と考える人もいよう。悪や罪を放置すれば、社会はどうなるか心配する人もいるかもしれない。しかし、神は、決して、甘いだけの方ではない。厳しい裁きの教えに満ちた旧約に劣らず、新約の神も、正義を無視されるわけではない。何回でも、限りなく赦せ、という教えの裏には、神の子、イエスの奉献―十字架の死―という厳しい現実があることを忘れてはならない。このイエスの自己奉献によって、すべての罪は赦されたのだ。
父なる神は、愛する御子が十字架上で自らを完全にささげることをよしとされた。それは、死に至るまでの父への愛、 人々への愛の明らかなしるしだからである。教会は、このイエスの愛こそが教会の存在の基盤であると確信し、イエスの記念の祭儀、ミサの中で、「罪のゆるしとなる新しい永遠の契約の血」と言ってイエスの死を記念する。
この神の限りないゆるしの愛に少しでも近づく恵みを祈ろう。(S.T.)