7月2日 イエズス会歴・記念
聖ベルナルディーノ・レアリーノ
聖ヨハネ・フランシスコ・レジー
聖フランシスコ・デ・ジェロニモ
福者ユリアノ・モノワール
福者アントニオ・バルディヌッチ
集会祈願
???? 第一朗読 (アモス7:10-17)
アモスの預言
〔その日、〕ベテルの祭司アマツヤは、イスラエルの王ヤロブアムに人を遣わして言った1 「イスラエルの家の真ん中で、アモスがあなたに背きました。この国は彼のすべての言葉に耐えられません。
11アモスはこう言っています。
『ヤロブアムは剣で殺される。
イスラエルは、必ず捕らえられて
その土地から連れ去られる。』」
12アマツヤはアモスに言った。
「先見者よ、行け。ユダの国へ逃れ、そこで糧を得よ。そこで預言するがよい。 13だが、ベテルでは二度と預言するな。ここは王の聖所、王国の神殿だから。」 14アモスは答えてアマツヤに言った。「わたしは預言者ではない。預言者の弟子でもない。わたしは家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者だ。
15主は家畜の群れを追っているところから、わたしを取り、『行って、わが民イスラエルに預言せよ』と言われた。 16今、主の言葉を聞け。あなたは、『イスラエルに向かって預言するな、イサクの家に向かってたわごとを言うな』と言う。
17それゆえ、主はこう言われる。
お前の妻は町の中で遊女となり
息子、娘らは剣に倒れ
土地は測り縄で分けられ
お前は汚れた土地で死ぬ。
イスラエルは、必ず捕らえられて
その土地から連れ去られる。」
???? 答唱詩編 詩編19 典124①②
アレルヤ唱 典270㊾
???? 福音朗読 (マタイ9:1-8)
マタイによる福音
〔その時、〕イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰って来られた。 2すると、人々が中風の人を床に寝かせたまま、イエスのところへ連れて来た。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と言われた。 3ところが、律法学者の中に、「この男は神を冒瀆している」と思う者がいた。 4イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。 5『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。 6人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。 7その人は起き上がり、家に帰って行った。 8群衆はこれを見て恐ろしくなり、人間にこれほどの権威をゆだねられた神を賛美した。
奉納祈願
拝領祈願
???? 分かち合い
「あなたの罪は赦された」というのは、「あなたは罪人だ」という言葉で終わらないのです。最も大切なことは、その罪を認めるときにそれを赦す救い主が私たちにはおられるということです。「あなたはキリスト・イエスにあって罪が赦されている。あなたは罪から解放されている。神様はあなたを深く憐れんでくださる。罪をもう犯さないようにして生きなさい」というその言葉こそ、赦しの意味が現れるではないかと思います。
中風の男は、自分で熱心に主イエスの所へ行きたいと願ったかどうか分かりません。多分、どうしようもないと諦めて絶望的になっていたのではないでしょうか。この絶望を担い、希望に変えるところに共同体の姿があります。友だちや周りの人々の愛によってやっとの思いで運ばれて来た絶望している男に主は言われました。「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と。ここでは、注目して行きたいのは中風の男を、遠いところから主イエスのところに担いできた人々の姿です。
この箇所は、「主イエスは、その人たちの信仰を見て」と語りました。信仰は見えないが、運んできた彼らの愛の行いを通して信仰を見たということだと思われます。このように、我々の信仰は、われわれの行いに現れるではないかと思います。真実の信仰は、何も言わなくてもその行いを見れば分かるでしょう。
中風の男の信仰と、その男の仲間たちには、信仰で一致しているとみられています。主イエスはこの人たちの内に、中風を癒してくださるという信仰の一致をみたではないかという風に考えられています。すなわち、我々がばらばらでは、力もでないし、主イエスも奇蹟を行いません。我々が一つになって、主イエスの奇跡にあずかれるのです。 「あなたがたがのうち、二人がどんなことでも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられる私の父は、それをかなえてくださいます。」(マタイ18:19)。共同体に、この人たちのように、病気で苦しむ人の救いと癒しを願いと祈りにおいて、信仰の一致があるなら、奇蹟が起こるはずだと思います。とにかく、言いたいのは我々の共同体の役割です。共同体の中で、皆が一致しようとするならば、それは信仰をあらわすのです。そして、共同体の中で、誰かが病気になったり、罪を犯したり、絶望したりしたら、その人にすぐそばに来て、その人を助けてあげるなら、こうして、我々の信仰を見せることができるでしょう。