神の国はあなたがたのものである
集会祈願
🌸 第一朗読 (一コリント7:25-31)
使徒パウロのコリントの教会への手紙
25〔皆さん、〕未婚の人たちについて、わたしは主の指示を受けてはいませんが、主の憐れみにより信任を得ている者として、意見を述べます。 26今危機が迫っている状態にあるので、こうするのがよいとわたしは考えます。つまり、人は現状にとどまっているのがよいのです。 27妻と結ばれているなら、そのつながりを解こうとせず、妻と結ばれていないなら妻を求めてはいけない。 28しかし、あなたが、結婚しても、罪を犯すわけではなく、未婚の女が結婚しても、罪を犯したわけではありません。ただ、結婚する人たちはその身に苦労を負うことになるでしょう。わたしは、あなたがたにそのような苦労をさせたくないのです。 29兄弟たち、わたしはこう言いたい。定められた時は迫っています。今からは、妻のある人はない人のように、 30泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、 31世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです。
🌸 答唱詩編 詩編45 典36 ④⑤
アレルヤ唱 典271 ⑧
🌸 福音朗読 (ルカ6:20-26)
ルカによる福音
20〔そのとき、〕イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。
「貧しい人々は、幸いである、
神の国はあなたがたのものである。
21今飢えている人々は、幸いである、
あなたがたは満たされる。
今泣いている人々は、幸いである、
あなたがたは笑うようになる。
22人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。 23その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。
24しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、
あなたがたはもう慰めを受けている。
25今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、
あなたがたは飢えるようになる。
今笑っている人々は、不幸である、
あなたがたは悲しみ泣くようになる。
26すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」
奉納祈願
拝領祈願
🌸 分かち合い
山から下りて平なところに立ち、大勢の群衆に取り囲まれたイエスが教えを宣べられる。マタイの山上の説教の冒頭を飾る有名な真福八端のルカ版。ルカは「幸い」を四点に絞り、さらに、反対命題をそえている。
いずれにしても、イエスの教えの真骨頂とも言うべきもの。旧約には全くない考えかと言えば決してそうではない。聖母マリアのマグニフィカトの下敷きとなったサムエルの母となるハンナの祈りに、「貧しい者、飢えている者」(1サムエル2.1∼8)への神のいつくしみが歌われている。詩編の中では、掟を守り正しく生きる人の幸いを述べるものが圧倒的に多いが、「飢えている人、虐げられている人、神を頼みとする人」の幸いを歌う詩編も少なくない。預言者の教えにも、それは、はっきりと打ち出されている。
旧約時代には、控えめに語られてきた貧しい人の幸いをイエスは、正面から取り上げ強調する。それは、すでに、正しい人が必ずしも地上で報われないという現実があり、それについての思索が深められてきた歴史もあるだろう。さらには、イエス自身が言葉で教えるだけでなく、自ら貧しいものとなられ、人々からも非難され、侮辱される経験を積まれたこと、そして、十字架の死という貧しさの極みを受けることを通して、神だけが与える真の幸せをもたらしくださったからだろう。
小さなものとされる経験によって、はじめて自分のものにすることができるイエスの教えに、少しでも近づく恵みを祈ろう。(S.T.)
貧しき人々は幸い!
この言葉はそのまま受け入れられる(注)
つまり、この言葉を教え・即ち実践する者の幸いは、分かち合いにある通り・我々日々の生活で実証されている通り、真実である。
この神の言葉を頭でっかちに否定するならまだよいが、行いと教えで否定する者は呪われていると言わざるを得ない。まさに自滅行為だ。
個々人の漠然とした金銭的不安が金銭的強迫観念となり、これを洗練した言葉と技術で政治家が組織化・制度化したとき、形式的法治国家においては合「法」的巨悪となる。
特に、世界内的利益誘導目的で国家が万物の霊長である人間の精神活動に介入するとき、霊性そのものが阻害され、地球と人類の自然治癒力が抹殺される。
反社会的国家は、
平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会
から、永遠に退場せざるを得ないだろう。
(注)以前、東京銀座で出会ったホームレスは、僕がおにぎりと烏龍茶で乾杯しようとする前に、目の前に散乱したパンのかけらを拾い集め口へ運んだ。彼と乾杯した記憶が薄っすらと残っているが、はっきりと、でないのは、僕にとっては乾杯のつもりでも、彼には乾杯の認識がなかったのかもしれない。
もっとも彼に認知症云々と名付けても無価値だ。その時々の認識より全身全霊の記憶こそが、今この瞬間の生命だから。
我々人類の課題は、彼を入院・収容・収監させることでなく、彼を幸いなる者に変容させる神の小さな偉業に協力協働することだ。
つい、呪われている、などと書いたが今、ジーザス・カフェというバンドが歌っていた。
♫すべての呪いは打ち砕かれた。イエスの十字架によって、、、、。だったかな。
ともかくその通り!アーメン!アレルヤ!