二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる
聖マキシミリアノ・マリア・コルベ司祭殉教者 (記)
集会祈願
🌸 第一朗読 (エゼキエル9:1-7、10:18-22)
1〔主〕は大声でわたしの耳に語った。「この都を罰する者たちよ、おのおの破壊する道具を手にして近寄れ。」 2すると、北に面する上の門に通ずる道から、六人の男がそれぞれ突き崩す道具を手にしてやって来るではないか。そのうちの一人は亜麻布をまとい、腰に書記の筆入れを着けていた。彼らはやって来ると、青銅の祭壇の傍らに立った。 3すると、ケルビムの上にとどまっていたイスラエルの神の栄光はそこから昇って、神殿の敷居の方に向かい、亜麻布をまとい、腰に書記の筆入れを着けた者に呼びかけた。 4主は彼に言われた。「都の中、エルサレムの中を巡り、その中で行われているあらゆる忌まわしいことのゆえに、嘆き悲しんでいる者の額に印を付けよ。」 5また、他の者たちに言っておられるのが、わたしの耳に入った。「彼の後ろについて都の中を巡れ。打て。慈しみの目を注いではならない。憐れみをかけてはならない。 6老人も若者も、おとめも子供も人妻も殺して、滅ぼし尽くさなければならない。しかし、あの印のある者に近づいてはならない。さあ、わたしの神殿から始めよ。」彼らは、神殿の前にいた長老たちから始めた。 7主はまた彼らに言われた。「神殿を汚し、その庭を、殺された者で満たせ。さあ、出て行くのだ。」彼らは出て行き、都の人々を打った。
18主の栄光は神殿の敷居の上から出て、ケルビムの上にとどまった。 19ケルビムは翼を広げ、傍らの車輪と共に出て行くとき、わたしの目の前で地から上って行き、主の神殿の東の門の入り口で止まった。イスラエルの神の栄光は高くその上にあった。 20これがケバル川の河畔で、わたしがイスラエルの神のもとにいるのを見たあの生き物である。わたしは、それがケルビムであることを知った。 21そのそれぞれに四つの顔と四つの翼があり、翼の下には人間の手の形をしたものがあった。 22これらの顔の形は、まさしく、わたしがケバル川の河畔で見た顔であった。それらは同じような有様をしており、おのおのまっすぐに進んで行った。
🌸 答唱詩編 詩編113 典51①②
アレルヤ唱 典270 ㊾
🌸 福音朗読 (マタイ18:15-20)
マタイによる福音
15〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた〕「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。 16聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。 17それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。
18はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。 19また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。 20二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」
奉納祈願
拝領祈願
🌸 分かち合い
12,3世紀に生きた聖クララについて触れる時、彼女が尊敬してやまなかったアシジの聖フランシスコに触れないわけにはゆかない。フランシスコは、彼に与えられていた富と、戦いを通して得ることを期待していた栄誉の一切を、キリストのために投げ出し、貧しい僕としての道を歩みだしていた。その姿に共感を覚えたクララも、家族の反対にもかかわらず、フランシスコの仲間になり、フランシスコの精神を生きるクララ会を創設した。
この二人の聖人は、主の招きに応えることで、それぞれ新しい修道者としての道を生き抜いたが、結果として、当時の教会に新しい風を吹き込み、フランシスコが倒れかけたダミアン聖堂を立て直したように、当時の社会の中に生きる教会にあらたな形をもたらしたのである。
今日の福音は、イエスが使うことの少ない「教会」という言葉をもって、イエスの教えに従って生きようとする弟子たちの群れのあり方を示している。それは、一言でいえば、「ゆるし合い、導きあい、共に祈る共同体」と言ってよいかもしれない。そこには、互いの弱さ、落ち度に厳しい目を向け、非難するのではなく、すべての人を招き、受け入れる神に眼差しを向けながら、互いを包み込む、新しい共同体の姿がある。
とかく、人間の失敗や、社会の欠陥にばかり注目し、人々の心をなえさせるメディアの影響を受けがちな現代人が、そうした弱さをもった人間の集いの中に、人となられた主が共におられることを希望を持って、宣べ伝えることができるよう、主の導きを祈ろう。(S.T.)