年間第十水曜日(6/12)
わたしが来たのは律法や預言者を完成するためである
集会祈願
🌸 第一朗読 (列王記上18:20-39)
〔その日、〕20アハブはイスラエルのすべての人々に使いを送り、預言者たちをカルメル山に集めた。 21エリヤはすべての民に近づいて言った。「あなたたちは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。もし主が神であるなら、主に従え。もしバアルが神であるなら、バアルに従え。」民はひと言も答えなかった。 22エリヤは更に民に向かって言った。「わたしはただ一人、主の預言者として残った。バアルの預言者は四百五十人もいる。 23我々に二頭の雄牛を用意してもらいたい。彼らに一頭の雄牛を選ばせて、裂いて薪の上に載せ、火をつけずにおかせなさい。わたしも一頭の雄牛を同じようにして、薪の上に載せ、火をつけずにおく。 24そこであなたたちはあなたたちの神の名を呼び、わたしは主の御名を呼ぶことにしよう。火をもって答える神こそ神であるはずだ。」民は皆、「それがいい」と答えた。 25エリヤはバアルの預言者たちに言った。「あなたたちは大勢だから、まずあなたたちが一頭の雄牛を選んで準備し、あなたたちの神の名を呼びなさい。火をつけてはならない。」 26彼らは与えられた雄牛を取って準備し、朝から真昼までバアルの名を呼び、「バアルよ、我々に答えてください」と祈った。しかし、声もなく答える者もなかった。彼らは築いた祭壇の周りを跳び回った。 27真昼ごろ、エリヤは彼らを嘲って言った。「大声で呼ぶがいい。バアルは神なのだから。神は不満なのか、それとも人目を避けているのか、旅にでも出ているのか。恐らく眠っていて、起こしてもらわなければならないのだろう。」 28彼らは大声を張り上げ、彼らのならわしに従って剣や槍で体を傷つけ、血を流すまでに至った。 29真昼を過ぎても、彼らは狂ったように叫び続け、献げ物をささげる時刻になった。しかし、声もなく答える者もなく、何の兆候もなかった。
30エリヤはすべての民に向かって、「わたしの近くに来なさい」と言った。すべての民が彼の近くに来ると、彼は壊された主の祭壇を修復した。 31エリヤは、主がかつて、「あなたの名はイスラエルである」と告げられたヤコブの子孫の部族の数に従って、十二の石を取り、 32その石を用いて主の御名のために祭壇を築き、祭壇の周りに種二セアを入れることのできるほどの溝を掘った。 33次に薪を並べ、雄牛を切り裂き、それを薪の上に載せ、 34「四つの瓶に水を満たして、いけにえと薪の上にその水を注げ」と命じた。彼が「もう一度」と言うと、彼らはもう一度そうした。彼が更に「三度目を」と言うと、彼らは三度同じようにした。 35水は祭壇の周りに流れ出し、溝にも満ちた。 36献げ物をささげる時刻に、預言者エリヤは近くに来て言った。「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ、あなたがイスラエルにおいて神であられること、またわたしがあなたの僕であって、これらすべてのことをあなたの御言葉によって行ったことが、今日明らかになりますように。 37わたしに答えてください。主よ、わたしに答えてください。そうすればこの民は、主よ、あなたが神であり、彼らの心を元に返したのは、あなたであることを知るでしょう。」
38すると、主の火が降って、焼き尽くす献げ物と薪、石、塵を焼き、溝にあった水をもなめ尽くした。 39これを見たすべての民はひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です」と言った。
🌸 答唱詩編 詩編 典
アレルヤ唱
🌸 福音朗読 (マタイ5:17-19)
マタイによる福音
〔その時、イエスは弟子たちに言われた。〕17「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。 18はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。 19だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。 」
奉納祈願
拝領祈願
🌸 分かち合い
マタイの福音書は、主にユダヤ人の背景を持つ読者を対象としていると述べた。彼らのユダヤ教的背景や伝統が、キリスト教に改宗した人々にとって簡単には手放せないものであったことは明らかである。パウロもマタイも、ユダヤ人改宗者に対し、キリスト教はユダヤ教を否定するものではなく、その自然な発展であることをわざわざ保証している。キリスト教はユダヤ教のすべてであり、それ以上のものなのだ。
だから、山上の説教の続きである今日の箇所で、イエスは読者に厳粛に断言する、
「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」
イエスは律法を廃止するためではなく、律法をより高いレベルに引き上げるために来られたのだ。例えるなら、コンピューターのOSをアップグレードするようなものだ。同じことをする同じコンピューターであることに変わりはないが、より良くなっているだけなのだ。イエスのビジョンは、私たちが律法を新しい光で見るのを助けてくれる。
だからイエスは、律法はまだ守るべきものだと言われる。もちろん、イエスが何を意味しているかは、この後はっきりとわかるだろう。イエスが言っているのは、律法の一つひとつの禁止事項(その中には、私たちには非常に奇妙に思えるものもある)を文字通り守らなければならないということではなく、むしろ、それらの禁止事項の背後にある精神はまだ有効であるということなのである。主の言葉は慰めの意味もあるが、後述するように挑戦でもある。新法とは、単に新しい要素を加えるという意味ではない。私たちが今、「パラダイム・シフト」と呼んでいるように、法を超えて「愛の法」へと至る道があるのだ。
私たちの教会においても、信仰を理解し、信仰を実践するための新しい方法へと創造的に前進する準備が必要である。過去の伝統は今でも有効であるが、時代の明らかな兆しに対応しないほど、伝統にとらわれてはならない。 伝統とは、最初から存在する基本的な信条として理解される場合と、単に昔からある物事のやり方や理解の仕方として理解される場合とがある。
「教会はいつ変化を止めるのだろうか?」と問う人がいる。パウロがコリントの信徒への第二の手紙の中で警告しているように、変化に対して自分自身を閉ざした日は、私たちが死ぬ日なのだ。ジョン・ニューマン枢機卿の言葉を引用しよう:
生きることは変化することであり、完全であることはしばしば変化することである。
ニューマン枢機卿は変化について知っていた。彼は、キリスト教信仰に対する自身の理解に根本的な変化をもたらし、それは大きな犠牲を伴うものであったが、避けられない変化であると考え、イギリス国教会からカトリック教会へと導いたのである。
LivingSpaceより