天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹である
集会祈願
🌸 第一朗読 (ミカ7:14-15、18-20)
ミカの預言
〔主よ、〕あなたの杖をもって
御自分の民を牧してください
あなたの嗣業である羊の群れを。
彼らが豊かな牧場の森に
ただひとり守られて住み
遠い昔のように、バシャンとギレアドで
草をはむことができるように。
15お前がエジプトの地を出たときのように
彼らに驚くべき業をわたしは示す。
18あなたのような神がほかにあろうか
咎を除き、罪を赦される神が。
神は御自分の嗣業の民の残りの者に
いつまでも怒りを保たれることはない
神は慈しみを喜ばれるゆえに。
19主は再び我らを憐れみ
我らの咎を抑え
すべての罪を海の深みに投げ込まれる。
20どうか、ヤコブにまことを
アブラハムに慈しみを示してください
その昔、我らの父祖にお誓いになったように。
🌸 答唱詩編 詩編85 典81①②
アレルヤ唱 典273㊻
🌸 福音朗読 (マタイ12:46-50)
マタイによる福音
イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。 47そこで、ある人がイエスに、「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。 48しかし、イエスはその人にお答えになった。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」 49そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。 50だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」
奉納祈願
拝領祈願
🌸 分かち合い
「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか。」「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」
日本語には、「赤の他人」とか「他人行儀」、また「身内」と言った言葉がある。悪い意味ではないが、自然に、自分の家族とそうでない人の間に敷居をおき、壁を作っている。日本に限らず、どの国でも、どの民族、どの文化にも、そうした傾向が少なからずあるに違いない。
「神の民」と呼ばれるイスラエルの人々の中にも、自分たちの仲間とそうでない人をはっきり区別する習慣が根付いていた。「異邦人」という呼び方がそれを端的に表している。ユダヤ人でない人、神のことばを聞いたことのない人、神を知らない人を、どこかで、よそ者扱いし、意識的に、あるいは、無意識のうちに差別的な目で見ていた。
イエスは、そのような人々の中に生まれ、生活しながら、彼らとは全く違う見方をもっておられた。ある意味で、イエスにとって、目に見えない「壁」はなかった。イエスは、家族と他人の関係だけでなく、あらゆる「壁」を乗り越えて人々と接しておられた。そして、それを証しするために、その実現のために自らを人々の手に渡された。パウロは言う、「キリストは二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました」と。
それは、皆が一つになるため、そして、「父の御心を行う人が、皆、兄弟、姉妹、そして母となる」ためだった。(S.T.)
「イエスは、、、あらゆる壁を乗り越えて人々と接しておられた。」
宗教と政治をタブーとすれば一見生活は楽であるがそこに悪い者がはびこるだろう。かと言って宗教と政治はそれぞれ派手な論争を目的とするものではない。
飢餓寸前の群衆にわずかなパンと魚で充満を味わうことを知らせたイエス。
そして最後の晩餐。
父の御心を行う人とは共通善を行う人?
愛とは善そのものによって形成された人格行為?
頭で考え言葉にしようとすると難しくなる。
今を生きるしかない。