年間第三十一木曜日(11/7)
見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください
集会祈願
🌸 第一朗読 (フィリピ3:3-8a)
使徒パウロのフィリピへの手紙
3〔皆さん、〕わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです。 4とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。 5わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、 6熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。 7しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。 8そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。
🌸 答唱詩編 詩編105 典94 ②③
答:心を尽くして神をたたえ、すべての恵みを心に留めよう。
神を捜し求める者よ、心から喜べ。
神にその力を求め、いつもその顔を慕い求めよ。
神が行われた不思議なわざを思い起こせ、
救いのしるしとさばきのことばを。 【答】
神のしもべ、選ばれた者よ、
神のさばきは世界に及ぶ。
神は契約をとこしえに守られる。
イスラエルのための永遠の契約。 【答】
アレルヤ唱 典276(諸聖人)
アレルヤ、アレルヤ。労苦して重荷を負っている者はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを回復させよう。アレルヤ、アレルヤ。
🌸 福音朗読 (ルカ15:1-10)
ルカによる福音
1〔そのとき、〕徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。 2すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。 3そこで、イエスは次のたとえを話された。 4「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。 5そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、 6家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。 7言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
8「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。 9そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。 10言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」
奉納祈願
拝領祈願
🌸 分かち合い
イエスが語る、神の愛についてのたとえにも、似たようなことが言える。ルカが記すたとえは、「見失った羊」のたとえと言われ、同じ内容を記すマタイ(18.12∼14)では「迷い出た羊」のたとえとされている。「見失った」なら、「見失った」主人に重点があるが、「迷い出た」なら、「迷い出た」羊に責任がある、ととれる。英語でも、lost sheep とstray sheep と訳される。確か、夏目漱石の『三四郎』にはstray sheep の話が出ていた。イザヤ預言書でも、「われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った」(53.6)とある。
神は、そうした自分の責任で迷った者も、ご自分が見失った者として、探し出しに行かれる。神の世界では、「自己責任」という言葉があまり意味を持たない。ファリサイ派の人々や律法の専門家(わたしたちも、そのひとりかもしれない)は、そうした神の心がわからないから、だれにでも近づこうとするイエスの広い愛も理解できないのだろう。
わたしたちも、少しでも、そうした、あわれな状態にある者に向けられる神のいつくしみの心に少しでも近づくことができるよう祈ろう。(S.T.)