年間第二十五木曜日(9/26)
イエスに会ってみたいと思った
集会祈願
🌸 第一朗読 (コヘレト1:2-11)
コヘレトの言葉
2コヘレトは言う。
なんという空しさ
なんという空しさ、すべては空しい。
3太陽の下、人は労苦するが
すべての労苦も何になろう。
4一代過ぎればまた一代が起こり
永遠に耐えるのは大地。
5日は昇り、日は沈み
あえぎ戻り、また昇る。
6風は南に向かい北へ巡り、めぐり巡って吹き
風はただ巡りつつ、吹き続ける。
7川はみな海に注ぐが海は満ちることなく
どの川も、繰り返しその道程を流れる。
8何もかも、もの憂い。
語り尽くすこともできず
目は見飽きることなく
耳は聞いても満たされない。
9かつてあったことは、これからもあり
かつて起こったことは、これからも起こる。
太陽の下、新しいものは何ひとつない。
10見よ、これこそ新しい、と言ってみても
それもまた、永遠の昔からあり
この時代の前にもあった。
11昔のことに心を留めるものはない。
これから先にあることも
その後の世にはだれも心に留めはしまい。
🌸 答唱詩編 詩編90 典52 ①③
アレルヤ唱 典269 ㊼
🌸 福音朗読 (ルカ9:7-9)
ルカによる福音
7〔そのとき、〕領主ヘロデは、これらの出来事をすべて聞いて戸惑った。というのは、イエスについて、「ヨハネが死者の中から生き返ったのだ」と言う人もいれば、 8「エリヤが現れたのだ」と言う人もいて、更に、「だれか昔の預言者が生き返ったのだ」と言う人もいたからである。 9しかし、ヘロデは言った。「ヨハネなら、わたしが首をはねた。いったい、何者だろう。耳に入ってくるこんなうわさの主は。」そして、イエスに会ってみたいと思った。
奉納祈願
拝領祈願
🌸 分かち合い
第一朗読の「コヘレトの言葉」は、旧約聖書の他の文書とは、どこか違う、異質にさえ感じる文書である。語っているのは、コヘレト(伝道者)、つまり、かつての偉大な王ダビデの子(ソロモン)の言葉とされる。あらゆる富と栄華を自らのものとし、周辺世界から知恵者としての名声を浴びて人生を生きた王。しかし、彼は、そうしたことのすべてが「空しい」という。だれが願っても手にすることのできない金銀財宝、周辺諸国から送られた贈り物とともに、皆が羨む美女たちに囲まれ、強大な軍隊を従え、大国の脅威をはねつける勢いをほしいままにした大王。そのかれが、晩年、「すべてがむなしい」と述懐したのはなぜか。これは、ソロモン王が生きた紀元10世紀からかなり時が経過した紀元前2世紀頃に記された言葉である。
イスラエルの民の中で、語り継がれてきた神のことばとは違う、ギリシャ文化の影響を受けた雰囲気の漂う文章の中に、民族を超えた、人類に共通する思いがあふれ出ており、日本の古典『方丈記』にも通じるものを感じる人が少なくないはず。人生のはかなさ、労働のむなしさ、不条理に満ちた現実への嫌悪。そうした思いはとかく、あきらめと絶望に道を開きかねないが、コヘレトの著者は、そこに光を見出そうとする。人間の現実の中に、人間を超えた知恵、世界を創造された方のはからいが人間に希望を与え、真の喜びに導くことを教える、奥深い信仰の書と言うべきではないだろうか。(S.T.)