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教皇の意向:希望の巡礼者 (12月)

イエスのみ心 金曜日(6/7)

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兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。

ヨハネ19:34
集会祈願

聖なる父よ、あなたは、人類の罪のために刺し貫かれた御子のみ心のうちに、限りない慈しみの泉を開いてくださいました。わたしたちが、心からの奉献によってキリストの愛にこたえることができますように。聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

🌸 第一朗読 (ホセア11.1、3-4、8c-9)

1〔主は言われる。〕
まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。
エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。
3エフライムの腕を支えて
歩くことを教えたのは、わたしだ。
しかし、わたしが彼らをいやしたことを
彼らは知らなかった。
4わたしは人間の綱、愛のきずなで彼らを導き
彼らの顎から軛を取り去り
身をかがめて食べさせた。
わたしは激しく心を動かされ
憐れみに胸を焼かれる。
9わたしは、もはや怒りに燃えることなく
エフライムを再び滅ぼすことはしない。
わたしは神であり、人間ではない。
お前たちのうちにあって聖なる者。
怒りをもって臨みはしない。

🌸 答唱詩編 詩編 典164 ①②③

 喜びの心をはずませ、救いの泉から水をくむ。

神はわたしの救い、わたしは信頼して恐れない。
神はわたしの力、わたしの歌、
わたしのすくい。  【答】

神をたたえ、その名を呼ぼう。
神のわざをすべての民に伝え、
その名の誉れを語り告げよう。 【答】

神は不思議なわざを成しとげられた。
神をほめ歌い、
そのわざを世界にのべ伝えよう。 【答】

🌸 第二朗読 (エフェソ3.8-12、14-19)

 8〔皆さん、異邦人が神の約束にあずかるという福音に仕える〕恵みは、聖なる者たちすべての中で最もつまらない者であるわたしに与えられました。わたしは、この恵みにより、キリストの計り知れない富について、異邦人に福音を告げ知らせており、 9すべてのものをお造りになった神の内に世の初めから隠されていた秘められた計画が、どのように実現されるのかを、すべての人々に説き明かしています。 10こうして、いろいろの働きをする神の知恵は、今や教会によって、天上の支配や権威に知らされるようになったのですが、 11これは、神がわたしたちの主キリスト・イエスによって実現された永遠の計画に沿うものです。 12わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます。 
 14こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります。 15御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています。 16どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、 17信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。 18また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、 19人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。

アレルヤ唱 典266 イエスのみ心B

アレルヤ、アレルヤ。神は先にわたしたちを愛し、わたしたちの罪のゆるしのために、ひとり子を遣わされた。アレルヤ、アレルヤ。

🌸 福音朗読 (ヨハネ19.31-37)

ヨハネによる福音

 31その日は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た。 32そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男との足を折った。 33イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、その足は折らなかった。 34しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。 35それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている。 36これらのことが起こったのは、「その骨は一つも砕かれない」という聖書の言葉が実現するためであった。 37また、聖書の別の所に、「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」とも書いてある。

奉納祈願

恵み豊かな神よ、御子イエスのみ心あふれるいつくしみを顧みてください。わたしたちの罪の償いとしてこの供えものが受け入れられますように。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

拝領祈願

神よ、愛の秘跡に強められて祈ります。わたしたちの心がいつも主イエスを求め、人々のうちに御子の姿を見いだすことができますように。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

祈る花:Inoruhana
祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

今日の祝日は、私たちに対する神の愛、特にイエスの生涯、苦しみ、死を通して表された神の愛を特別な形で祝う。その昔、特に中世においては、キリストの脇腹の傷への信心がむしろ盛んであり、その出来事は今日のヨハネの福音書の箇所にも登場する。その後、特に聖マーガレット・マリアの幻視から、イエスの愛の象徴として、ひいては私たちに対する神の愛の象徴として、イエスの聖心に重点が置かれるようになった。聖マーガレット・マリアはフランスのパレ・ル・モニアルの訪問会修道院に属し、1680年にそこで亡くなった。

ヨハネの福音書には、神がイエスを通して特別な方法で私たちに語りかけているイエスの生涯の意味と意義を表現する「しるし」が数多く登場する。これらのしるしの中には、カナの婚宴でぶどう酒が水に変わったことや、山上でイエスが5,000人を養ったことなどがある。その他にも、池のほとりで不自由な人を癒したこと、盲人に視力を回復させたこと、ラザロを死者の中からよみがえらせたことなどがある。そのひとつひとつに、肉体的な癒しを超えた霊的な意味がある。

今日の福音書では、イエスの脇腹を刺し貫いたことも「しるし」として書かれているが、これは他の3つの福音書では言及されていないものである。

血と水
このしるしは、イエスが十字架につけられ、釘で打たれることによって処刑された後に起こった。通常、十字架につけられた人々は数日間生き延びることができ、実際、他の犯罪者への抑止力として、無期限に遺体を放置するのがローマ人の習慣であった。しかし、安息日が近づくにつれ、ユダヤ人は処刑された者の遺体を日没以降に放置することを許さなくなった。そのため、イエスと一緒に処刑された他の二人の犯罪者は、死を早めるために足を折られた。しかし、彼らがイエスのところに来てみると、イエスはすでに死んでいた。イエスはすでに、鞭打たれ、いばらの冠をかぶせられ、苦しんでおられたのだ。しかし、念のため、ローマ兵の一人がイエスの脇腹を、イエスの心臓を刺した。

そしてヨハネは、イエスの脇腹の穴から血と水が流れ出たと報告している。医学的に言えば、これは不思議な現象ではないが、ヨハネにとっては特別な意味がある。それはイエスの業と使命の意味を指し示すもう一つの特別な「しるし」である。彼の福音書ではすでに、水と血が救いのしるしとして確立されている。

ニコデモとの面会でイエスは言われた:

「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」(ヨハネ3:5)。

これは明らかに洗礼のことである。そして、いのちのパンについてのお話の中で、イエスは言われた:

「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。… わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」(ヨハネ6:53-54,56)

イエスの脇腹から流れる水と血を描写することで、ヨハネは読者がこの「しるし」を、初代教会の二つの主要な秘跡である洗礼と聖体と結びつけることを期待しているのだろう。そして、これは教会の教父たちの一般的な解釈である。

栄光は父と子と聖霊に
ヨハネにとって、十字架はイエスの栄光の瞬間であり、イエスの死、新しい命へのよみがえり、御父との再会、そして従者たちへのイエスの聖霊の吹き出しを含んでいる。最後の晩餐の直前、イエスは弟子たちに言われる:

「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」(ヨハネ12:32)。

この「引き寄せ」には、十字架上で引き寄せられるだけでなく、御父によって聖霊に引き寄せられることも含まれる。

それゆえ、教会はキリストの傷ついた側面から生まれたと言うことができると理解されている。この「しるし」が重要視されるのは、今日の福音書でヨハネがその証人の信頼性を強く強調しているからである:

「それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている。」(ヨハネ19:35)

ヨハネはこの箇所を、もう二つの『しるし』で結んでいる。イエスの死に方が、イエスと一緒に十字架につけられた人々の死に方と異なっているのは、聖書の一節の成就であるとヨハネは考えている:

「その骨は一つも砕かれない」(ヨハネ19:36)。

この聖句は、ユダヤ人が過ぎ越しの祭りのために子羊の肉を用意する際、骨を折ってはならないという指示が出されたことを指している。もちろん、イエスは今、新しい過ぎ越しの小羊であり、その血は愛によって注がれ、あらゆる人々に救いをもたらすのである。

そして、ヨハネは預言者ゼカリヤの文章を引用し、それがイエスの死を指し示していると見る。原文はこうだ:

「わたしはダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ。彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ。」(ゼカ12:10)。

さらに数節、ゼカリヤはこう続ける:

「その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れを洗い清める一つの泉が開かれる。」(ゼカリヤ13:1)。

これらの文章は、イエスの十字架のそばに忠実に立っていたイエスに従う者たちを指しており、「泉」は、死んだが栄光のうちに復活したイエスの脇腹から注がれる清めの水を指している。

福音書全体は、御子の犠牲的な死を通して注がれる神の愛について語っている。そしてそれこそが、今日私たちがイエスの刺し貫かれた聖心を思い起こし、祝っていることなのである。

愛する親なる神
第1朗読は預言者ホセアによるもので、神は愛する子を持つ親として語っている。神はその子を「エジプトから」と呼び、イスラエルが奴隷から解放され、約束の地への旅を始めたときの偉大な解放の行為を思い起こさせる:

「わたしは人間の綱、愛のきずなで彼らを導」いた。(ホセア11:4)

神は、子供を優しく頬に抱き上げる愛情深い親のようである。

エフェソの信徒への手紙の第2朗読では、パウロが美しい祈りを捧げている。パウロが祈っているのは、教会の他の人々と同じように、キリストにある神の救いの計画についての理解が深まるようにということである。信仰を通して、キリストの愛が彼らの心に、キリストの御心から発せられるのと同じ愛が宿るように、と。そして、パウロは素敵な言葉を使って、彼らや彼らの仲間のクリスチャンたちが、どこにいてもこうなると書いている:

……「あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。 18また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、 19人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」(エフェソ3:17b-19)

だから、今日、私たちは、イエス・キリストの苦しみと死とよみがえりによって、このような特別な形で示された、私たちに対する神の特別な愛を祝っているのである。その愛が私たちの生活の中でどのような形で現され、また現され続けているのか、今日、私たちはさまざまな形で考えてみよう。

しかし、そこで立ち止まってはならない。もし私たちがその愛を完全に受け取り、私たちの人生においてその愛が真に効果的であるならば、私たちが出会うすべての人にその愛を伝えなければならない:

「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ13:35)。

この愛には限界も例外もない。この愛は、私たちに敵対する者にさえも向けられるものである。私たちの愛は、赦し、和解、癒し、憐れみの愛でなければならない。

LivingSpaceより

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御言葉の典礼を読み続く🌸

聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
どうぞよろしくお願い致します。

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