そうすれば、来年は実がなるかもしれません。
🌸 第一朗読 (出エジプト3.1-8a、13-15)
出エジプト記
1〔そのとき、〕モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。 2そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。 3モーセは言った。「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。」
4主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼が、「はい」と答えると、 5神が言われた。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」 6神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。
7主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。 8それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地へ彼らを導き上る。
13モーセは神に尋ねた。
「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」
14神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」 15神は、更に続けてモーセに命じられた。
「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。
これこそ、とこしえにわたしの名
これこそ、世々にわたしの呼び名。
🌸 答唱詩編 詩編103 典93 ①②③
答:心を尽くして神をたたえ、すべての恵みを心に留めよう。
神はわたしの罪をゆるし、
痛みをいやされる。
わたしのいのちを危機から救い、
いつくしみ深く祝福される。【答】
神は正義のわざを行い、
しいたげられている人を守られる。
神はその道をモーセに示し、
そのわざをイスラエルの子らに告げられた。【答】
神は恵み豊かに、あわれみ深く、
怒るにおそくいつくしみ深い。
父が子どもをいつくしむように、
神の愛は、神をおそれる人の上にある。【答】
🌸 第二朗読 (一コリント10.1-6、10-12)
使徒パウロのコリントの教会への手紙
1兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、 2皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ、 3皆、同じ霊的な食物を食べ、 4皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。 5しかし、彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました。 6これらの出来事は、わたしたちを戒める前例として起こったのです。彼らが悪をむさぼったように、わたしたちが悪をむさぼることのないために。
10彼らの中には不平を言う者がいたが、あなたがたはそのように不平を言ってはいけない。不平を言った者は、滅ぼす者に滅ぼされました。 11これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです。 12だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。
詠唱 典260 第三主日C
「神に立ち戻りなさい。神の国は来ている」と主は仰せになる。
🌸 福音朗読 (ルカ13.1-9)
ルカによる福音
1ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。 2イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。 3決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。 4また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。 5決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」
6そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。 7そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』 8園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。 9そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」

🌸 分かち合い
四旬節は回心の時、と言われます。断食をしたり、普段以上に祈ったり、施しをしたりするのも、自分の回心のため、また、回心のしるしとして行のです。しかし、回心は、自分から一方的に、自分のあやまちを認め、過去の行跡を悔い改める、ということではありません。自分の思いに先立って、神がわたしたちに働きかけ、悔い改める心を与えてくださるから、回心が実現するのです。回心は、神の恵みです。
今日の第一朗読、出エジプト記を読みながら、今読まれた福音と照らし合わせて、そんなことを考えさせられました。エジプトに移住して、長い年月を過ごす間に、人口も増え、イスラエルの存在がエジプトの王にとって脅威となったとき、王は彼らを強制労働につかせ、厳しい状況に追いやりました。神は、御自分の民、イスラエルの苦しみを御覧になって、彼らをエジプトの圧政から救い出そうと、モーセをお召しになります。そして、神はモーセに言われます、「わたしは、エジプトにいる私の民の苦しみを見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った」と。これが、神の救いの業の出発点です。そして、神は、御自分が何者であるかを、モーセに示されます。「わたしはある。わたしはあるという者だ」と。これが神の名だと言われます。いろいろに解釈されてきましたが、今聖書学者の中で広く受け入れられている解釈は、「わたしは共にいる存在、どこにいっても、ともに歩む存在」という意味です。
こうした考えが聖書の中で強調されているにもかかわらず、人々の中には、どの文化にも共通してみられる考え方、いわゆる、「勧善懲悪」の思想が根強くあったようです。それが、今日の福音の教えの背景にある事情です。イエスの時代にあった出来事をもとに、イエスは人々の問いに答えます。当時、神殿に礼拝にやってきたガリラヤ人がローマ兵によって殺害され、その血が祭壇の生贄の血に混ぜられたことは、彼らがより罪深い人間だったからか。また、シロアムの池の工事で塔が倒れて犠牲になった18人は、それ以外のエルサレムの住人よりも罪深いからなのか。
すでに、こうした疑問―正しい人が苦しみにあうのは、なぜか、その罪深さによるのかーは、エゼキエルの預言やヨブ記の中で、すでに提起されていました。しかし、人々の間には、悲惨な出来事や、災いが繰り返されるたびに、禍の陰には、人間の罪が絡んでいる、という思いは今日に至るまで繰り返しよぎってきます。そうした因果応報的な考えに対して、イエスは、そうではない、とはっきり言われるのです。
むしろ、イエスはそうした機会を利用して、悔い改めについて、そして、神の限りないいつくみについて教えます。実を結ばないいちじくの木の話です。3年間も忍耐して、実を結ぶのを待ってみたが、一向に結ぶ様子はない。園の主人は、畑を無駄にしておくより、切り倒した方がよいと、園丁に言います。しかし、彼は、もう1年待ってください、その間十分世話してやります、と。
人間はとかく人間が作った基準で人を判断しがちです。定められた時間で、目標とする数字、割り当てられた量をこなしたかで、よしあしを決める。神のいつくしみはそれとは違います。たとえ時間がかかっても、結果がわずかであっても、1点足りなくても、神の人への愛は変わりません。神は、繰り返し人々に語りかけ、回心の機会を与えます。生きる限り、回心のチャンスがあるのです。フランシスコ教皇は言われました、「人間はゆるしを求めることをあきらめます。しかし、神は決してあきらめません」と。悔い改めを待ち望む神の慈しみが、自分だけでなく、一人でも多くの人に理解し受け入れられ、生きる希望と力が与えられるよう祈りましょう。(S.T.)