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教皇の意向:子を失った親 (11月)

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年間第二十二主日B年(9/1)

あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている
集会祈願

全能永遠の神よ、あなたはひとり子イエスをとおしてみ旨を明らかに示してくださいました。わたしたちがきょうもあなたに立ち帰り、みことばをいのちの糧とすることができますように。聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、私たちの主イエス・キリストによって。アーメン。

🌸 第一朗読 (申命記4.1-2、6-8)

 1〔モーセは民に言った。〕イスラエルよ。今、わたしが教える掟と法を忠実に行いなさい。そうすればあなたたちは命を得、あなたたちの先祖の神、主が与えられる土地に入って、それを得ることができるであろう。 2あなたたちはわたしが命じる言葉に何一つ加えることも、減らすこともしてはならない。わたしが命じるとおりにあなたたちの神、主の戒めを守りなさい。
 6あなたたちはそれを忠実に守りなさい。そうすれば、諸国の民にあなたたちの知恵と良識が示され、彼らがこれらすべての掟を聞くとき、「この大いなる国民は確かに知恵があり、賢明な民である」と言うであろう。 7いつ呼び求めても、近くにおられる我々の神、主のような神を持つ大いなる国民がどこにあるだろうか。 8またわたしが今日あなたたちに授けるこのすべての律法のように、正しい掟と法を持つ大いなる国民がどこにいるだろうか。

🌸 答唱詩編 詩編15 典101 ①②

答 しあわせな人、神をおそれ、主の道を歩むもの。

神よ、あなたの幕屋に泊まる人、
あなたのとうとい山を住まいとする人はだれ。
それはとがなく歩み、正義を行い、
心からまことをかたる人。   【答】

ことばで人をきずつけず、
悪を行わず、隣人をはずかしめない。
神を捨てた者を戒め、神を恐れる者をとうとぶ。
このようにふるまう人は、
とこしえにゆらぐことがない。 【答】

🌸 第二朗読 (ヤコブ1.17-18、21a-22、27)

 17〔わたしの愛する兄弟たち、〕良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません。 18御父は、御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました。それは、わたしたちを、いわば造られたものの初穂となさるためです。
 21心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。22御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。
  27みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。

アレルヤ唱 典272 22B

アレルヤ、アレルヤ。父は御心のままに心理のことばによってわたしたちを生み、被造物の初穂とされた。アレルヤ、アレルヤ。

🌸 福音朗読 (マルコ7.1-8、14-15、21-23)

マルコによる福音

 1〔そのとき、〕ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。 2そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。 3――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、 4また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。―― 5そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」 6イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。
 『この民は口先ではわたしを敬うが、
 その心はわたしから遠く離れている。
 7人間の戒めを教えとしておしえ、
 むなしくわたしをあがめている。』
 8あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」
 14それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。 15外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」
 21中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、 22姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、 23これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」 

奉納祈願

すべてをあらたにしてくださる神よ、ひとり子イエスはわたしたちを罪から清めるためにご自分をささげてくださいました。この食卓を通して、キリストの奉献により深く結ばれますように。私たちの主イエス・キリストによって。アーメン。

拝領祈願

信じる者の力である神よ、きょうからの一週間の生活を力強く導いてください。何が大切であるかをわきまえ、み旨の実現を求めて社会の中で生きることができますように。私たちの主イエス・キリストによって。アーメン。

祈る花:Inoruhana
祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

 ヨハネによる福音書第6章と「いのちのパン」としてのイエスというテーマを5週間にわたって考察した後、私たちは今日、マルコによる福音書の朗読の続きに戻ります。今日のテーマは真の宗教の本質です。
 モーセの律法はイスラエルの人々にとって非常に重要なものでした。彼らは、神の民でありたいという願いのもとに発展させた法制度を当然誇りに思っていました。モーセは第1朗読でイスラエルの民に尋ねます:「いつ呼び求めても、近くにおられる我々の神、主のような神を持つ大いなる国民がどこにあるだろうか。 またわたしが今日あなたたちに授けるこのすべての律法のように、正しい掟と法を持つ大いなる国民がどこにいるだろうか。」
 律法を通して、彼らは 「異邦人 」である隣人たちとは異なる、より良い生活を送ることが期待されていたのです。当時は、神への献身と従順のしるしとして、律法を守ることが非常に重視されていました。しかし、イエスの時代には、律法はその適用が絶望的に複雑になり、日常生活で生じる多くの実践的な問題を解釈できるのは専門家だけになっていました。
 律法はもはや、人々が神を愛し仕えるための道しるべではなくなったのです。律法を守ること自体が目的になっていたのです。神や同胞との関係を築くことではなく、自分の外面的な振る舞いをチェックすることに重点が置かれていたのです。
 私たちの告解もそのようなことがあります。私たちが告解する 「罪 」の多くは、個人的な失敗(私は短気を起こしました、私はせっかちでした、私は怠惰でした、私は無愛想でした)という言い方をすることが多く、自分が他の人々とどのように関わっていたか、あるいは自分の行動(あるいはそれ以上に、自分の行動をとらなかったこと)がどのように他の人々を傷つけたかについては、ほとんど言及されません。

あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」

 この言葉は、ファリサイ派の人々に対してではなく、キリスト教共同体の中で厳格に教義を重んじるユダヤ人メンバーに対して、そして今日の私たちの共同体の中でも同様の人々に対して向けられているようです。
 このような文化や伝統への隷属は、今日の世界において、地域社会間や家族内における大きな争いの原因となっています。このような原理主義は、多くの国々で恐ろしい憎しみと暴力の源となっており、真の宗教を完全に否定するものです。私たちは、多民族・多文化の社会で、このような原理主義を強く意識する必要があります。(現代では、民族、文化、宗教が混在していない社会はほとんどありません)。あらゆる技術が発達しても、現代の人々はイエスの時代の人々とほとんど変わっていません。

 今日からヤコブの手紙の朗読を始めます。今日の朗読の中で、作者は律法の真の源について語ります:「良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。」イエスは神の言葉として、このすべての善と完全の担い手です。ですから、ヤコブは私たちにこう勧めています:「心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。」そして、ファリサイ派の人々や律法学者たちがイエスに言っていたこととは対照的に、ヤコブは続けます:「みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。」

 つまり、宗教は掟を守ることとはあまり関係がありません。それよりも、私たちを取り巻く環境の堕落的な影響から解放され、私たちの中で最も弱く、最も疎外されている人々の必要性に敏感になることの方が重要なのです。そして、イエスが言われたように、私たちが兄弟姉妹の中で最も小さい者にしたことは、「わたしにしたこと」(マタイ25:40)なのですから。
 私たちの本当の関心事は 「これは愛のある行動なのか」 ということです。掟や規則があろうとなかろうと、それが愛の言葉や行為でないなら、それはキリスト者でもなければ、真に人間的な行為でもなければ、道徳的な行為でもありません。
 私たちの教会や小教区、そして人々が協力し合わなければならないところでは、当然、規則が必要です。しかし、それは私たちがより円滑に協力し合うための手段に過ぎません。ひとたび規則が私たちに指図し始めたら、私たちは大変なことになります。「ルールは破られるためにある」という言葉には多くの真実があります。
 法律は制限するためのものではなく、他者に不利益を与えることなく個人や集団の自由を最大化するためのものです。私たちはよく、信号機が私たちに不利な赤になったとき、信号機を呪いますが、信号機が故障したときは、混乱が起こるので、もっと呪います。

 最終的には、与えられた状況の中で、どのようにキリストを愛し、キリストに仕えるのが最善なのかを、各自が見極めなければなりません。そのためには、多くの正直さ、誠実さ、そして高いレベルの本当の自由が求められます。福音は掟ではありません。福音は、他の人々の中で神のために生きる、真に人間らしい生き方のビジョンを示しています。福音は、個人の行動よりも人間関係に重点を置いています。
 まさに今日、私たちは様々な場面でイエスを愛し、仕える機会を多く持つでしょう。何か悪いことをしたのではないか(「それは罪なのか?」)と不安になるのではなく、「今日、どこで、どのようにすれば、より愛と思いやりのある、思いやりのある人になれるのか?」と問いかけてみてください。

LivingSpaceより

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御言葉の典礼を読み続く🌸

聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
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