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教皇の意向:子を失った親 (11月)

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年間第十九主日 B年(8/11)

わたしは、天から降って来た生きたパンである
集会祈願

すべての人を養ってくださる神よ、私たちは今日もキリストのもとに一つに集められました。命の恵みにともにあずかるわたしたちが、神の国をめざして歩む力で満たされますように。聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、私たちの主イエス・キリストによって。アーメン。

🌸 第一朗読 (列王記上19.4-8)

 4〔その日、王妃イゼベルが自分を殺そうとしていることを知ってエリヤは、〕荒れ野に入り、更に一日の道のりを歩き続けた。彼は一本のえにしだの木の下に来て座り、自分の命が絶えるのを願って言った。「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。」 5彼はえにしだの木の下で横になって眠ってしまった。御使いが彼に触れて言った。「起きて食べよ。」 6見ると、枕もとに焼き石で焼いたパン菓子と水の入った瓶があったので、エリヤはそのパン菓子を食べ、水を飲んで、また横になった。 7主の御使いはもう一度戻って来てエリヤに触れ、「起きて食べよ。この旅は長く、あなたには耐え難いからだ」と言った。 8エリヤは起きて食べ、飲んだ。その食べ物に力づけられた彼は、四十日四十夜歩き続け、ついに神の山ホレブに着いた。

🌸 答唱詩編 詩編34 典128 ①②③

答 主を仰ぎ見て、光を受けよう。
  主が訪れる人の顔は輝く。

主をたたえよう、
明け暮れ賛美をくちにして。
主はわたしたちの口のほこり、
苦しむ時の心の喜び。 【答】

心を合わせて主をあがめ、
ともにその名をたたえよう。
主はわたしたちの祈りに心を留め、
すべての恐れを遠ざけてくださる。 【答】

主は貧しい者の叫びを聞き、
悩みの中から救い出し、
主を恐れる者に使いをおくり、
支えとなって守ってくださる。 【答】

🌸 第二朗読 (エフェソ4.30~5.2)

 30〔皆さん、〕神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。 31無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。 32互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。
 1あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。 2キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。

アレルヤ唱 典

アレルヤ、アレルヤ。わたしは天から下ったいのちのかて。このパンを食べる人は永遠に生きる。アレルヤ、アレルヤ。

🌸 福音朗読 (ヨハネ6.41-51)

ヨハネによる福音

 41〔その時、〕ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、 42こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」 43イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。 44わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。 45預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。 46父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。 47はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。 48わたしは命のパンである。 49あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。 50しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。 51わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」

奉納祈願

愛に満ちておられる神よ、キリストの奉献を記念してこの食卓を囲みます。わたしたちがキリストの愛にこたえ、生活のすべてをあなたにささげる者となりますように。私たちの主イエス・キリストによって。アーメン。

拝領祈願

いつくしみ豊かな神よ、新たな力に満たされて祈ります。ご自分を食物として差し出された主イエスにならい、愛のうちに歩み続けることができますように。私たちの主イエス・キリストによって。アーメン。

祈る花:Inoruhana
祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

 今日、8月11日は、第33回夏季オリンピック競技大会(パリオリンピック)の最終日、閉会式の日。しかし、日本の教会にとっては、6日(広島)と9日(長崎)に挟まれた大事な祈りの日です。

 79年前のことを知る人、直接体験した人が年々少なくなってゆくとき、その日にあったことと、その意味を考えることは、一層大事になってきます。5日の夕方、当時広島のイエズス会修練院の修練長をしておられたアルぺ神父は、爆心地から5㎞しか離れていない長束修練院の聖堂に被爆者を一時は150人も受け入れ、可能な限りの治療に当たられたことはご承知の通りです。

 1981年には、教皇ヨハネ・パウロ2世が「戦争は人間のしわざです」という言葉で始まる平和アピールを発表され、2019年には、フランシスコ教皇が、短時間ではありましたが、平和公園に立ち寄り、お言葉を述べられたことはまだ記憶に新しいこと。

 原爆の犠牲となられた多数の方々、また、そのご遺族の方、命は助かったが、その後、ずっと傷を持ち続けてこられた方のことを考えると、今日のみ言葉は、多くのことを語っているように思えます。

 第一朗読の『列王記』の中で、預言者エリヤは、主への忠実と奉仕のために全力を尽くした結果、イスラエルの王から疎まれ、命を追われる身となります。エリヤは荒れ野に身を隠し、主に祈ります、「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください」と。大きな苦しみや痛みの中で、どれほど多くの人が、同じような叫びをあげたことでしょう。しかし、エリヤは、苦しみの中で、眠り、目を覚ますと、枕元にパン菓子と水の入った瓶を見、それを食べ、水を飲むと、あらたな力をいただいて、神の山にまで歩き続けます。そして、エリヤが山のふもとで、さらなる使命を受けて、働き続けたことが列王記には記されています。広島にせよ、長崎にせよ、あれほどの悲惨と苦しみの中から立ち上がり、今日の繁栄を築いたのは、そうした苦しみに耐え、復興というあらたな使命のために献身した多くの方々、また、中国地方や長崎の教会も、そうした苦しみを経験した司祭・修道者・信徒の方々の献身の賜物であることを思い起こしましょう。

 ヨハネ福音書は、先週に続いて、6章の「いのちのパン」の話が読まれました。ヨハネは、イエスがわずかのパンから5000人の人に食べさせた、その不思議な出来事を記すだけでなく、そのことの意味を解き明かそうとしていることは、先週もお話ししました。今日の箇所には、今まで出てこなかった「ユダヤ人」という言葉が出てきます。ヨハネ福音書の中で「ユダヤ人」は、「イスラエル人」と異なり、神の言葉を受け入れようとしない、頑なな人々を指す言葉として使われています。群衆に代わって登場する「ユダヤ人」は、イエスをあくまで、ヨセフの息子、その父も母も知っている、いわば、イエスは自分たちの理解を超えた人物であるはずがないと決めつけ、イエスの言葉を素直に受け止めようとしない人々です。「わたしは天から降ったパンである」など、とうてい受け入れられない主張なのです。

 そして、そうしたユダヤ人たちの態度を見抜いてイエスは言われます、「父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない」。「父から聞いて学んだ者は、皆、わたしのもとに来る」と。これは、人間が自分の限りある知識・理解力を超えて、神ご自身が人の心を照らし、導かれる時、そして、自らのうちに信じる心が生まれてはじめて神の世界に触れることができる、ということではないでしょうか。あくまでも、人間的な思い、判断に固執する限り、決して、神の言葉を受け止めることができない、ということを意味するのではないでしょうか。

 イエスが自らを「天から降ってきた生きたパンである」と言い、「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉である」と言われる時、イエスはご自分がそのような、人間を神の世界に導く、いのちの糧であり、それをいただこうとしない限り、つまり、信じることをしない限り、神の世界に至ることができない、と教えておられるのです。

 エリヤが、神が用意されたパン菓子を食べ、水を飲んで、歩き続けることができたように、わたしたちに残されたイエスの体であるパンをいただくことによって、人生の中で、繰り返し襲ってくる苦しみ、悩み、痛みに耐え、主が示される地にいたるまで、歩き続けることが出来るよう、共に祈りましょう。(S.T.)

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御言葉の典礼を読み続く🌸

聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
どうぞよろしくお願い致します。