安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた
集会祈願
限りない愛に満ちておられる神よ、あなたはたえずわたしたちを、真理のことばは導いてくださいます。ここに集うわたしたちが、あなたの言葉を深く受け止め、心からあなたを賛美することができますように。聖霊の交わりの中で、あなたとともに生き、支配しておられる御子、私たちの主イエス・キリストによって。アーメン。
🌸 第一朗読 (エゼキエル2.2-5)
2〔その日、〕霊がわたしの中に入り、わたしを自分の足で立たせた。わたしは語りかける者に耳を傾けた。 3主は言われた。「人の子よ、わたしはあなたを、イスラエルの人々、わたしに逆らった反逆の民に遣わす。彼らは、その先祖たちと同様わたしに背いて、今日この日に至っている。 4恥知らずで、強情な人々のもとに、わたしはあなたを遣わす。彼らに言いなさい、主なる神はこう言われる、と。 5彼らが聞き入れようと、また、反逆の家なのだから拒もうとも、彼らは自分たちの間に預言者がいたことを知るであろう。
🌸 答唱詩編 詩編123 典116 ①2
答 主は豊かなあがないに満ち、いつくしみ深い。
神よ、わたしは目をあげてあなたを仰ぐ。
あなたの住まいは天にある。
主人の手に目を注ぐしもべのように、
そのあわれみをわたしたちは待つ。 【答】
栄光は父と子と聖霊に。
初めのように
今もいつも
世々に。アーメン。 【答】
🌸 第二朗読 (二コリント12.7b-10)
〔皆さん、わたしが〕思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。 8この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。 9すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。 10それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。
アレルヤ唱 典
アレルヤ、アレルヤ。貧しい人に福音を、捕らわれびとに解放を告げるため、神はわたしを遣わされた。アレルヤ、アレルヤ。
🌸 福音朗読 (マルコ6.1-6)
マルコによる福音
1〔そのとき、〕イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。 2安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。 3この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。 4イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。 5そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。 6そして、人々の不信仰に驚かれた。
奉納祈願
信じる者の力である神よ、救いの言葉に強められて祈ります。主の食卓をととのえる私たちを祝福し、新たないのちで満たしてください。私たちの主イエス・キリストによって。アーメン
拝領祈願
全能の神よ、主キリストに結ばれたわたしたちを日々の働きの場に派遣してください。弱さのうちに働いてくださるあなたの力を信じ、与えられた使命を果たしていくことができますように。私たちの主イエス・キリストによって。アーメン。
🌸 分かち合い
マルコ福音書は、イエスの様々な活動についての記述を中断するかのように、故郷での逸話を挿入する。日本語には、「故郷に錦を飾る」という言葉があるが、当時のイスラエルの人々にそうした習慣はなかったのだろうか。むしろ、イエスは故郷の人々から冷たい態度で迎えられる。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡は一体何か。この人は、大工ではないか。・・・」まさか、自分たちの中で育ったあのイエスがこんなことをしでかすとは。「人々はイエスにつまずいた」、とはっきり記す。
そうした故郷ナザレの反応はマルコだけでなく、他の福音書も記している。ルカに至っては、イエスの活動のはじまり、いわば、第一声の後、人々がイエスをナザレの会堂から連れ出し崖から突き落とそうとした、とショッキングなことまで記している。なぜ、そんな出来事を、福音書の冒頭にあえて記したのだろうか。しかし、実は、ヨハネ福音書の荘厳な序文の中にもこんな言葉がある、「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(1.10、11)と。人となられた神の子イエスは、故郷の人々だけでなく、神によって選ばれたイスラエルの民、御自分の民によって受け入れられなかった、と福音記者はそろって記しているのである。一体これはどういう意味だろうか。
イエスに先立つ預言者たちも、同様の経験をした。第一朗読で読まれた預言者エゼキエルも主から語られた言葉を記す、「恥知らずで、強情な人々のもとに、わたしはあなたを遣わす。彼らに言いなさい。主なる神はこう言われる、と。彼らが聞き入れようと、また、反逆の家なのだから拒もうとも、彼らは自分たちの間に預言者がいたことを知るであろう」と。
神に選ばれ、特別な恵みに満たされながら、何故、イエスラエルの民は、神から遣わされた方を受け入れ信じることが出来なかったのだろうか。そして、故郷の人々は、人となられた神の子につまずいたのだろうか。人間には、人間を超えた存在が介入することを、根本的に恐れ、拒否する本能が働くのだろうか。自らの弱さ、不完全さに気づかず、現状に満足し、傲慢とかたくなさを批判する者を許そうとしない頑迷さが巣食っているからだろうか。神の存在を認め、神を礼拝することを学びながら、神がどこか遠く、人間の手の届かない高いところにおられる存在、あるいは、人間の必要な時にだけ、人間の求めに応じる、人間の操作に従う便利な道具のように考えているからだろうか。神をあくまで、人間の生き方、自分たちの自律を脅かすことのない、無害な存在として奉っているからだろうか。
イエスは、そうした人間の傲慢と不信に挑戦される。しかし、それは力によってではなく、自らの弱さによって、自らの十字架の死によってである。自らの貧しさ、弱さ、罪深さを認めるもの、労苦する者、重荷を負う者、それによって、心が砕かれ、心を神に開くものにだけ、御自分を現わされる。
パウロは書く、「キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」と。
わたしたちの内に潜む傲慢さ、尊大な心を認め、へりくだりの心が与えられ、そうした思いを深めることにつながる経験を恐れず受け入れ、少しでも、主の招きに応え歩んでゆくことができるよう祈ろう。(S.T.)
🌸 住田神父様による分かち合い
Intro
・下関地域のキリスト者と言われる人々を、主を中心とした一つの共同体と見ることができる。長府、細江、彦島、四つの幼稚園、労働教育センター、援助マリア会の会員、イエスの小さき姉妹会、そして、この共同体に何らかの形で関わっていく人々(この共同体に招き入れられようとする人々を含めて)のために今日のごミサをお捧げしたい。
Homily(Eze 2.2-5、ⅡCorin 12.7b-10、Mc 6.1-6)
・使徒パウロのコリントの教会への手紙:「すると主は、『私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」
★「私は弱いときにこそ強い」というパウロの姿勢は、私たちキリスト者にとっても、信仰を生きる上で、欠かすことのできない信仰の態度である。
★今日は、パウロのこの信仰の態度に焦点を当てたい。
・パウロは、主イエス・キリストの道に従う者は、すべて見つけしだい縛りあげ、エルサレムに引いていく人であった。このパウロは、主と出会って、劇的に、主キリストに従う使徒に変えられた。そのダマスコ途上でのパウロの回心の体験を見る時、「私は弱いときにこそ強い」というパウロの信仰の態度を理解することができるのではないか。
Ⅰ. パウロの回心の四つの特徴
1.『主が現れてくださった(Ⅰコリ15.8)』:月足らずで生まれたような私にも主が現れてくださった。
★信仰者としての未熟な者という自覚
2.『すべてを失った(フィリピ3.4-9)』:キリストのゆえに、私はすべてを失いました。
↓
以前大切に思えたことすべてのことからの全面的な離脱
・フィリピ3.4-6:肉に頼ろうと思えば、私は頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、私はなおさらのことです。私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人のなかのヘブライ人です。律法に関してファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非の打ちどころのない者でした。
★非の打ちどころのない者:「あなたたちのうち、いったいだれが、私に罪があると責めることができるのか。」と言えたかもしれない。外面的に非の打ちどころのない者 → 何者かであること、ひとかどの者であることが、神によって義とされる自力による義化(義とされる)の道を生きていた。
・キリストを前にしては、このことは何の価値もないことを深く悟った。恵みの福音に生きることが始まった。何者だからではなく、ひとえに神の慈しみによって恵みを受けた者であることを悟った。
3.『闇の中に置かれた(盲目の体験)』
(1)神の光に触れられることを通して、自己の闇を知り、認める。
(2)罪深いことを自覚し、ゆるしを求める人々の中に組み入れられた。
↓
洗礼を受けた。
4.『派遣(罪人として、なお、招かれている)』
・派遣の内容:あの者は、異邦人たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。
・回心の一つのセット
5.パウロの回心:主キリストに敵対するものから主キリストの使徒へ(内的な変化)
(1)主との関わりから、自分自身のあるがままを認めた。
・主イエスを迫害する罪人であること
・『福音という救いの恵みは、非の打ちどころのない者になっていくことを通して与えられるのではなく、ひとえに主の慈しみと憐れみに触れていくことを通して与えられるのだ』という悟り
(2)弱さの体験(今までの生き方が徹底的に否定されるという出来事)
・盲目の体験(三日間、盲目の状態におかれ、人々に手を引いて導かれるという身分)
・すべてを失うという体験:「私が、私が」という自分自身を中心とする生き方から、主との関わりを最優先する者へと変えられた。
Ⅱ.わたしは弱いときにこそ強い
1.弱さの経験:外から弱くされる時もあれば、自分自身のことによって、身体的に、精神的にも弱くなる時がある。
★パウロは、「わたしは弱いときにこそ強い」と言っているが本当にそうか。
2.弱い時は、「私が、私が」という自分自身を中心とするエゴの世界から出やすい時
★自分自身から積極的に働きかけることができない時なので、周囲の人々や主に依存しやすい時。自己を中心とするエゴの世界から抜け出ることが容易な時。
3.なぜ強いのか:神が、主が働きやすい場が、自分自身のうちに、周囲に生じる。
・自分自身の弱さを認める。周囲を、そして、自分自身を裁かない、判断しないで。
FE:恨み、憎しみ、拒否からの自由
★恨み、憎しみ、拒否等は自分自身の弱さでもある。自分自身の決めつけ。
4.「わたしは弱いときにこそ強い」という信仰の態度を生きる