年間第十三主日 B年(6/30)
娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。
集会祈願
万物の造り主である神よ、あなたの栄光は、すべてのいのちのうちに輝いています。きょう語られるキリストのことばをとおして、わたしたちがいのちの意味を悟り、いのちのパンをいただいて、生きる喜びを新たにすることができますように。聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。
🌸 第一朗読 (知恵1.13-15、2.23-24)
13神が死を造られたわけではなく、
命あるものの滅びを喜ばれるわけでもない。
14生かすためにこそ神は万物をお造りになった。
世にある造られた物は価値がある。
滅びをもたらす毒はその中になく、
陰府がこの世を支配することもない。
15義は不滅である。
23神は人間を不滅な者として創造し、
御自分の本性の似姿として造られた。
24悪魔のねたみによって死がこの世に入り、
悪魔の仲間に属する者が死を味わうのである。
🌸 答唱詩編 詩編30 典65 ①②③
答 神はわたしを救われる。
そのいつくしみをたたえよう。
神よ、あなたはわたしを救い、
死の力が誇るのを許されない。
神よ、あなたは死の国からわたしを引きあげ、
危ういのちを助けてくださった。 【答】
滅びは神の怒りのうちに、
いのちは恵みのうちにある。
夜が嘆きに包まれても、
朝は喜びに明けそめる。 【答】
神よ、いつくしみ深くわたしを顧み、
わたしの助けとなってください。
あなたは嘆きを喜びに変え、
あら布を晴れ着に替えてくださった。 【答】
🌸 第二朗読 (二コリント8.7、9、13-15)
7あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい。 9あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。
13他の人々には楽をさせて、あなたがたに苦労をかけるということではなく、釣り合いがとれるようにするわけです。 14あなたがたの現在のゆとりが彼らの欠乏を補えば、いつか彼らのゆとりもあなたがたの欠乏を補うことになり、こうして釣り合いがとれるのです。
15「多く集めた者も、余ることはなく、
わずかしか集めなかった者も、
不足することはなかった」
と書いてあるとおりです。
アレルヤ唱 典269 13B
アレルヤ、アレルヤ。わたしたちの救い主イエス・キリストは死を滅ぼし、福音によって生涯を照らしてくださった。アレルヤ、アレルヤ。
🌸 福音朗読 (マルコ5.21-43 または5.21-24、35b-43)
マルコによる福音
21〔そのとき、〕イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。 22会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、 23しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」 24そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。
大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。
《25さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。 26多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。 27イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。 28「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。 29すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。 30イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。 31そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」 32しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。 33女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。 34イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」
35イエスがまだ話しておられるときに、》
会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」 36イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。 37そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。 38一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、 39家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」 40人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。 41そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。 42少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。 43イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。
奉納祈願
いつくしみ深い神よ、あなたはひとり子イエスの復活によって死の力を滅ぼしてくださいました。主の過越を記念するわたしたちが、新しいいのちに生きるものとなりますように。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。
拝領祈願
すべてのものを活かしてくださる神よ、主キリストのいのちに触れた喜びのうちに祈ります。わたしたち一人ひとりが互いに支え合い、悩み苦しむときの力となことができますように。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。
🌸 分かち合い
嵐を静められたイエスが、人々の生きる世界でも、同じ力あるわざを行われること、そして、それを信じる人々がいたことを福音書は語る。死にかかっていた幼い娘のためにイエスの癒しを願った会堂長の話、そして、長年出血に苦しんだ女性が、イエスの服に触れることによって癒された出来事が読まれた。
この二つの話、マルコが長く、詳しく書き記した出来事を読んでいて感じることの一つは、イエスが、ただ素晴らしい教え、神の人間に対する深い愛について語るだけでなく、それを、御自分のふるまい、行動によって示されたということである。イエスの言葉には、神が世界を創造されたとき、その言葉によって無から有を呼び出されたように、病を癒し、死者をよみがえらせ、人の心を180°変える力(回心させる)があったということである。イエスの語る言葉には、人を生かす力があり、人が立ち上がり歩き始める力がある。そして、イエスの行う業は、イエスの語る言葉に、信憑性を与える。ミサの中でお聞きになるみ言葉、朗読される聖書の言葉には、そのような力があることを、どれだけしっかり受け止めているだろうか。受け止め方は人によって様々かもしれない。しかし、そこには、必ず、人の心に訴える神の語りかけがあることを忘れないようにしよう。
今日福音で読まれた二つの出来事、それは、わたしたち人間が生きている限り、必ず出会う根本的な問題と絡んでいる。病気の問題、そして、死の問題。イエスは、その短い公生活の間、そうした人間が抱える大きな問題の一つ一つにかかわりをもたれた。決して病気や死をすべてなくされたわけではない。病人を癒し、死者をよみがえらせた。しかし、イエスはこの世界から、一切の病気を、また、人が必ず迎える死を取り去られたわけではない。むしろ、自ら、人が経験する死、しかも、もっとも悲惨な十字架上の死を受け入れられた。それは、人間がいつか出会わなければならない病、そして、死が、決して人間を神から引き離すものでないこと、老い、病い、死、そうした現実の中にも、神がおられ、人に力を与え、光を注ぎ、慰めと愛、そして、救いを与えることを教えられたのだ。
ヤイロは、愛する娘が瀕死の状態にあったが、何もすることが出来ず、イエスの力にすがろうとした。イエスは気の毒に思い、癒しに出かけようとしたが、その途中で出会った一人の女性のために、到着が遅れ、娘は息絶えた。
その女性は、長年出血症に煩わされ、頼りにしていた医者から治療を受けるどころか、財産を搾り取られ、散々な目に遭った。そして、群衆に立ち混じってイエスに近づき、その服に触れる。イエスに触れるだけで、癒されると確信していたのだろう。一言も発ししないまま、イエスから力が出、女性の出血が止まった。イエスは言われる、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と。
死んだ娘のいるヤイロの家についたイエスは、人払いをし、娘の両親と三人の弟子だけを連れて娘のもとに行き、娘の手を取り、「タリタ、クム」(娘よ、起きよ)と言われると、少女は起き上がって歩き出した。イエスが使われた、数少ないアラム語がそのまま記されているのは、それだけ強い印象を人々に与えたからだろう。その後、少女がどうなったか、福音書は一切記していない。
イエスは、この世界から死を取り去らない。しかし、死者をよみがえらせることのおできになる方が、自ら十字架の上で、死を受け入れられたこと、そこに、福音を記した方々の思いがあり、わたしたちの信仰の土台がある。それは、そのような死を受け入れられた方が、再び死ぬことのない永遠の命に移られ、わたしたちも、死を通して、同じ永遠の命にあずかることをわたしたちは信じている。
第一朗読の『知恵の書』の著者は言う、「神が死を造られたわけではなく、命あるものの滅びを喜ばれるわけでもない。生かすためにこそ神は万物をお造りになった。世にある造られた物は価値がある」と。たとえ限りがあり、様々な病やコロナのような命を脅かすものから自由になりえない命であるとしても、神からいただいた尊い命、神ご自身が人となって生きられたこの命を、自己満足ではなく、神が望まれるように、人々を生かすものとなるよう、日々生きることができるよう祈りながらミサを続けよう。(S.T.)