祈る花:Inoruhana
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四旬節第一主日C年(3/9)

イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった

🌸 第一朗読 (申命記26.4-10)

申命記

 4〔モーセは民に言った。〕祭司はあなたの手から籠を受け取って、あなたの神、主の祭壇の前に供える。5あなたはあなたの神、主の前で次のように告白しなさい。「わたしの先祖は、滅びゆく一アラム人であり、わずかな人を伴ってエジプトに下り、そこに寄留しました。しかしそこで、強くて数の多い、大いなる国民になりました。 6エジプト人はこのわたしたちを虐げ、苦しめ、重労働を課しました。 7わたしたちが先祖の神、主に助けを求めると、主はわたしたちの声を聞き、わたしたちの受けた苦しみと労苦と虐げを御覧になり、 8力ある御手と御腕を伸ばし、大いなる恐るべきこととしるしと奇跡をもってわたしたちをエジプトから導き出し、 9この所に導き入れて乳と蜜の流れるこの土地を与えられました。 10わたしは、主が与えられた地の実りの初物を、今、ここに持って参りました。」あなたはそれから、あなたの神、主の前にそれを供え、あなたの神、主の前にひれ伏しなさい。

🌸 答唱詩編 詩編91 典129 ①②③

:主を仰ぎ見て、光を受けよう。主が訪れる人の顔は輝く。

「神はわたしののがれ場、わたしのとりで、
わたしは神により頼む。」
神はその羽であなたをおおい、
翼のもとにあなたはのがれる。【答】

神があなたのために使いにめいじ、
あなたの進むすべての道をまもられる。
神の使いは手であなたをささえる。
それゆえ不幸はあなたに臨まず、災いは住まいにちかづかない。【答】

神は仰せになる。「わたしに頼る者をわたしはすくい、
わたしを知っている者をまもる。
呼び求める者にわたしはこたえ、
悩みの時ともにいて救いと誉れをあたえよう。」【答】

🌸 第二朗読 (ローマ10.8-13)

使徒パウロのローマの教会への手紙

8〔皆さん、聖書には〕何と言われているのだろうか。
「御言葉はあなたの近くにあり、
あなたの口、あなたの心にある。」
これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。 9口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。 10実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。 11聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。 12ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。 13「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。

アレルヤ唱 典260(第一主日)

人はパンによるだけではなく、神の言葉によって生きている。

🌸 福音朗読 (ルカ4.1-13)

ルカによる福音

 1〔その時、〕イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、 2四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。 3そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」 4イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。 5更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。 6そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。 7だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」 8イエスはお答えになった。
「『あなたの神である主を拝み、
ただ主に仕えよ』
と書いてある。」 9そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。 10というのは、こう書いてあるからだ。
『神はあなたのために天使たちに命じて、
あなたをしっかり守らせる。』
11また、
『あなたの足が石に打ち当たることのないように、
天使たちは手であなたを支える。』」
12イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。 13悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。

祈る花:Inoruhana
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🌸 分かち合い

 今日は四旬節第一の主日。先週の灰の水曜日から、復活祭を迎えるための約40日間の準備の期間に入った。この季節の間、施し、祈り、断食、といった務めを果たしながら、イエスの生涯の中のいくつかの大事な出来事や言葉を思い起こし、黙想する。そして、わたしたちが何を頼りに、何を信じて生きているか、あらためて思い巡らし、必要なら軌道修正をしながら、信仰者としての歩みを続けてゆくときだ。
 今日の福音では、イエスが公生活のはじめに受けられた荒れ野での誘惑のことが読まれた。「荒れ野の誘惑」と言うと、イエスラエルの民が、エジプトから解放されて約束の地に入る前に、40年間砂漠で過ごしたことを想い出す。イエスご自身も、それを思い起こしておられたに違いない。先ほど読まれたルカの福音では、イエスは「荒れ野の中を霊によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた」とあります。そして「その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた」と(1,2)。
 そこに悪魔が現れ、イエスに言う、「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と。パンは生きるために欠かすことのできないもの。戦火で家を失った人々、地震ですべてを奪われた人々にまず届けられるのは、生きるための食糧と水。それらが欠けたとき、人間は必至な思いで手に入れようとする。ときに、不正な方法に頼ってでも、必要なものを確保しようとするかもしれない。イエスは、そのような限界状況に自らを置かれる。しかし、イエスは、その機会を利用して、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。と。モーセが砂漠で、飢えたイスラエルの人々に語ったとされる『申命記』の言葉。そして、人々の飢えを癒すことのできるお方は、ご自分のために、その力を使おうとせず、むしろ、すべてを神の手に委ねられる。
 すると、悪魔は、イエスを高い山に連れて行き、すべての国とその繁栄を見せて言う、「この国々の一切の権力と繁栄を与えよう。・・・もし、わたしを拝むなら、みんなあなたのものになる」と。人々が密かに抱いていたメシアの姿、力と権威に満ち、すべての国を従える王のイメージ。イエスの弟子、もっとも信頼していた使徒たちでさえ、そうした誘惑に最後まで惑わされていたではないか。しかし、イエスは、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」(8)と書いてあると答える。どれほど、誘惑が大きくても、神でないものを神とする、それが、自分と、自分の家族、自分の属する組織、ひいては、自分の国に利することがあっても、神の存在を忘れ、それが、あたかも神であるかのような、最高の価値としてあがめることは、何としても慎まねばならないことをイエスは教える。
 次いで悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言う、「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ」(9)とそして、イエスラエルの人々が、日々唱えていた詩編の言葉を引用して言う、「神はあなたの天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる」(詩91.11∼12)と。イエスは悪魔にはきっぱりと答える、「あなたの神である主を試してはならない」と言われている(12)と。あたかも神を試すかのように、深い思慮もなく、信仰に基づく決意もないまま、危険に身をさらしたり、自らの力を誇示したりする誘惑は、潔く退けるよう教えられるのだ。
 今日、四旬節の始めにあたって、こうしたイエスが受けられた誘惑を思い起こすのは、ただ、それがかつてメシアがお受けになった誘惑について知るためではない。むしろ、同じような悪魔の誘惑、人を神から遠ざけようとする悪霊の力が今も働いていること、それは、まさに、わたしたちの中に、わたしたちが生きる現実社会の中に起きていることを知るためではないか。悪へのいざないは、まず豊かさ、富み、所有への誘惑、次いで、人々からの賞賛、名誉、喝さいへの誘惑、さらには、底知れない傲慢へと人々を導くものである。そんな誘惑に対して、どのように自らを守ったらよいのか。
 今日の第一、第二朗読は、期せずして、わたしたちに明解な答えを与えてくれる。第一朗読の『申命記』は、砂漠の経験を終えて、約束の地に入ろうとするイスラエルの民に、モーセが粛々と諭した教えである。たとえ、約束の地で、満ち足りた生活をしようとも、かつて歩んできた道、その道をともに歩み導かれた主、「力ある御手と御腕を伸ばし、大いなる恐るべきこととしるしと奇跡をもってわたしたちをエジプトから導き出し、この所に導き入れて乳と蜜の流れるこの土地を与えられた」主を片時も忘れてはならないと。
 そして、第二朗読の『ローマの教会への手紙』の中で、パウロは言います、かつてイスラエルを奴隷の家から導かれた主ではなく、むしろ、時満ちて、人となられた神の子、人々に父なる神の愛を告げ知らせるために身を粉にして働き、自らをあの十字架で捧げられた「イエスは主であると公に言い表すこと」、そして、「心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じる」こと、これこそが、誘惑からわたしたちを解放する信仰告白であり、それによってわたしたちは救われると断言します。誘惑に打ち勝つ力、それは、わたしたち自身のもつ力ではありません。わたしたちに、すべての良い物を与え、絶えず、必要なものを与えてくださる父なる神への感謝です。その父なる神の愛を身をもって証ししてくださったイエスご自身の残された言葉を聞き、さらには、主が自らの記念として教会に残された「晩餐」に共に与ることによって、日々新たにされることによってです。
 すでに始まった四旬節の間、こうした心が深められ、様々な形で苦しみを担っている方々と共に、過ぎ越しの神秘に与り、復活の喜びを分かち合うことが出来るよう祈りましょう。(S.T.)

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御言葉の典礼を読み続く🌸

聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
どうぞよろしくお願い致します。