聖ヤコブ使徒、(祝日:7月25日)(1世紀)
使徒聖ヨハネの兄である聖ヤコブは、もう一人の使徒ヤコブと区別するために、たびたび大ヤコブと呼ばれます。彼がどのようにしてキリストと知り合ったか、はっきりとはわかりませんがキリストの最初の弟子だった弟ヨハネを通じてのことではないかと思われます。
キリストの公生活が始まって数か月後に弟子として呼ばれるまでのヤコブは、恐らくキリストに何度か出会っていたと思われます。とにかく最初の奇跡的な漁の後、イエズスは、ペトロとアンドレアを終始そばにいるように呼び、その後、舟の中で父ゼベダイとともに網を繕っていたヤコブとヨハネを呼びました(マタイ4:21)。そして山上の説教の直前に、ヨハネと同じように、ヤコブも十二人の使徒に加えられたのです(ルカ6:14)。その時、キリストは二人に「雷の子」という愛称を付けたと書かれています。ヘブライ語で「雷の子」というのは、雷と密接な関係がありますので、若者の間に数年前に流行した雷族と似たようなものだと思われますが、とにかく二人とも非常に激しい性格だったようです。聖書の中には、ある時、キリストがサマリアの村に入ろうとするのを村人が拒んだので、二人は怒ってその村に天からの火を投げ込もうとした、というようなことが書かれています(ルカ9:54)。そのような激しさをキリストはいさめなければなりませんでした。「あなたたちは、自分がどんな精神に従っているかを知らない。人の子は命を滅ぼすためではなく、救うために来た」と言われています。結局ヤコブは、まだキリストの精神を完全には理解していなかったのでした。
これは福音書に書いてあるもう一つの出来事です。ある時、ヤコブとヨハネの母親がキリストに近づいて、自分の二人の子をキリストの国でその右と左に座らせてくださいと頼んだ時、キリストは、もう一度この二人をいさめなければなりませんでした。そしてその野望をできればよい方向に向けたいと思われ、r私が飲もうとしている杯を、あなたたちも飲むことができるか」と尋ねられました。キリストの胸には来たるべき死のことが浮かんでいました。二人は即座に「はい、できます」と答えました。キリストはその正直さと勇気を嬉しく思っていることを示して、「あなたたちは、確かに私の杯を飲むだろう」とおっしゃりながら、「しかし私の右と左の席は、父から定められた人たちに与えられるものである」と言われたのでした(マタイ20:20)。
福音書には、聖ヤコブについて他のことは書いてありません。聖霊降臨の後、西欧の西の果てスペインまで行って、そこにキリスト教会を築いたと伝えられています。しかしそれがどれほどの期間であったかもわかりませんし、その活動も長くは続かなかったのではないかと思われます。
キリストの死後、十三年か十四年後、すなわち西暦四三年か四四年、ユダヤ王ヘロデ・アグリッパー世は、ヤコブをエルサレムで逮捕し、首をはねました(使徒12:2)。キリストの杯を飲めると言ったヤコブは、殉教の冠を受けるために、他の使徒たちに先立ったのでした。彼の遺体は、弟子たちによってもう一度スペインの北西に運ばれました。その後、サラセンの侵略によって墓のありかは忘れられてしまいました。しかし、10世紀に再び人の知るところとなり、その上に壮大な大聖堂が建てられ、その周囲にサンチャゴ・デ・コンポステラ(使徒の野原の聖ヤコブ)という町ができました。そして中世の全ヨーロッパにおいて、ローマについで有名な巡礼の地となりました。一般の人びとをはじめ、王侯貴族までが、数か月もの長い旅をしてサンチャゴを訪れました。その道筋には、橋や病院、旅館、聖堂などが数多くでき、文化の大きな通路となったのでした。
聖ヤコブはスペインの保護者と仰がれています。彼のように、キリストのあかしを勇敢に行なうことができるよう祈りましよう。