聖霊がそのときに教えてくださる
集会祈願
🌸 第一朗読 (エフェソ1:15-23)
使徒パウロのエフェソの教会への手紙
15〔みなさん、わたしは、〕あなたがたが主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していることを聞き、 16祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし、絶えず感謝しています。 17どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、 18心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。 19また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。 20神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、 21すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。 22神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。 23教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。
🌸 答唱詩編 詩編8 典48 ①②
アレルヤ唱 典272 ㉔
🌸 福音朗読 (ルカ12:8-12)
ルカによる福音
8〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す。 9しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の天使たちの前で知らないと言われる。 10人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は赦されない。 11会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。 12言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。」
奉納祈願
拝領祈願
🌸 分かち合い
「自分をわたしの仲間であると言い表す。」
人間はだれでも、どこかに所属したい、だれかとつながっていたい、仲間でいたい、という根本的な欲求をもっている。それが満たされることで、安心感が生まれ、帰属意識が生じ、自尊心も守られる。それは自分の安定につながるが、同時に、状況によっては、自分を危機に陥れることにもなる。迫害下におかれたキリシタンは、自分の確信をあらわにすることで、殉教するものもいれば、表面的には、それを表わさない道を選んで信仰を継承する道を選んだ人々もいた。
だれかの仲間である、と公言することは、自分がだれであるかを表明することである。自分の出身や家族ではなく、自分が選んで決めたもの、自分がより深いところで大切にしているもの、簡単に失いたくないものを明らかにすることである。はたして、そのようなものを持ち合わせているだろうか。いざという時に、自分が決して手放したくないと言えるものは、はたして何だろうか。動き出す舟に一冊だけもつことを許される本があるとすれば、それは、何だろうか。
あるとすれば、はたして、それを頭や心で受け止めるだけでなく、行動に表わす生き方をしているだろうか。ミサの中で信仰宣言を唱えるだけでなく、それを文字通り、生活に生かそうとしているだろうか。
使徒たちは、見事に失敗した。しかし、彼らは、やり直すことが出来た。それは、回心に導く聖霊に心を開くことができたからだろう。(S.T.)
僕は謙遜というのがどうも苦手なので、
どうしたら謙遜になれますか?
と小教区の講座でF師に質問すると、
アビラの聖テレジアの言葉を引用されて、
謙遜とは、ありのままであること、
と言われた。
そうか、これでいいのだ!と思った。
つい高ぶったり傲慢になったりすると必ずブーメランが帰って来て、痛い目にあったりして謙虚謙遜にならざるを得なくなる。
それに神は、自分のありのままをすべて見てくれている。
神の前では着飾ったり仮面を付けたりする必要はない。
神はすべてを見てくれている。
今まで教会に、特にミサや告解、司祭や修道者や信徒に本当にとことん、お世話になってきた。今も、このサイトでも同じだ。
しかし何かが変わりつつある。現に明日は一日中仕事で教会に行けない。現代はキリシタン時代とは違うが、どこか似ている。
何とかして教会というぶどうの木につながっていること。聖書を常に読むこと、正直言って最近はこのサイトとトイレと床の中でだが、とにかく接していること。
そして、どんな時も、どこにいても聖霊を感じていること。
不安がないと言ったら嘘になる、闇のようなこの世にあって。
闇こそ光だ、と十字架の聖ヨハネが言ってた気がする。信仰の光?という回勅もあった気がする。日本の殉教者たちの信仰の光。まさに闇の中の光。
母が以前買って来たマンガ日本史に日本の殉教者たちが書かれていて、みんな幸せそうなので人々が驚いた、とあった。
信仰とは恵みであり神秘である以上、世の人々にとって不可解で奇異に思われても仕方ない。人々とともにあって、しかしどこか違うキリスト者。
パウロも、生も死も関係ない、と言っていた。
キリストに聖霊に天の父に従うだけだ。
使徒たちは、見事に失敗した。
素晴らしい!
転ばぬイエスの仲間なんて気の抜けたビールのようだぜ!
まあ、ほどほどに、、、。
って柄でもありませんが。