主の名によって来られる方、王に、
祝福があるように。
天には平和、いと高きところには栄光。
🌸 入城の福音 (ルカ19・28-40)
ルカによる福音
そのとき、28イエスは先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。29そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、30言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。31もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」32使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった。33ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばをほどくのか」と言った。34二人は、「主がお入り用なのです」と言った。35そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。36イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。37イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。
38「主の名によって来られる方、王に、
祝福があるように。
天には平和、いと高きところには栄光。」
39すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。40イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」
🌸 第一朗読 (イザヤ50・4-7)
イザヤの預言
4主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え
疲れた人を励ますように
言葉を呼び覚ましてくださる。
朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし
弟子として聞き従うようにしてくださる。
5主なる神はわたしの耳を開かれた。
わたしは逆らわず、退かなかった。
6打とうとする者には背中をまかせ
ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。
顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。
7主なる神が助けてくださるから、
わたしはそれを嘲りとは思わない。
わたしは顔を硬い石のようにする。
わたしは知っている
わたしが辱められることはない、と。
🌸 答唱詩編 詩編22 典
答:わたしの神、わたしの神、どうしてわたしを見捨てられるのか。
わたしを見る者はみなあざ笑い、
わたしをののしって言う。
「彼は神を頼みとした。神が救いに来ればよい。
神がかれを心にかけているのなら、救い出せばよい。」【答】
犬がわたしを取り囲み、
悪を行う者の群れが迫り、わたしの手足を引き裂いた。
わたしはさらしものにされ、
かれらはわたしを見つめる。【答】
彼らはわたしの衣を分け合い、
着物をくじ引きにした。
神よ、わたしから遠くはなれず、
急いで助けに来てください。【答】
わたしはあなたの名を兄弟に告げ、
その集いの中であなたをたたえる。
神をおそれる者は神をたたえ、ヤコブの子孫はみな神をほめよ。
イスラエルの子孫はみな神をおそれよ。【答】
🌸 第二朗読 (フィリピ2・6-11)
使徒パウロのフィリピの教会への手紙
6イエス・キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、7かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、8へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。9このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。10こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、11すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。
🌸 受難の朗読 (ルカ23・1-49)
ルカによる主イエス・キリストの受難
1そこで、全会衆が立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った。 2そして、イエスをこう訴え始めた。「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました。」 3そこで、ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」とお答えになった。 4ピラトは祭司長たちと群衆に、「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と言った。 5しかし彼らは、「この男は、ガリラヤから始めてこの都に至るまで、ユダヤ全土で教えながら、民衆を扇動しているのです」と言い張った。
6これを聞いたピラトは、この人はガリラヤ人かと尋ね、 7ヘロデの支配下にあることを知ると、イエスをヘロデのもとに送った。ヘロデも当時、エルサレムに滞在していたのである。 8彼はイエスを見ると、非常に喜んだ。というのは、イエスのうわさを聞いて、ずっと以前から会いたいと思っていたし、イエスが何かしるしを行うのを見たいと望んでいたからである。 9それで、いろいろと尋問したが、イエスは何もお答えにならなかった。 10祭司長たちと律法学者たちはそこにいて、イエスを激しく訴えた。 11ヘロデも自分の兵士たちと一緒にイエスをあざけり、侮辱したあげく、派手な衣を着せてピラトに送り返した。 12この日、ヘロデとピラトは仲がよくなった。それまでは互いに敵対していたのである。
13ピラトは、祭司長たちと議員たちと民衆とを呼び集めて、 14言った。「あなたたちは、この男を民衆を惑わす者としてわたしのところに連れて来た。わたしはあなたたちの前で取り調べたが、訴えているような犯罪はこの男には何も見つからなかった。 15ヘロデとても同じであった。それで、我々のもとに送り返してきたのだが、この男は死刑に当たるようなことは何もしていない。 16だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」 17† 18しかし、人々は一斉に、「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」と叫んだ。 19このバラバは、都に起こった暴動と殺人のかどで投獄されていたのである。 20ピラトはイエスを釈放しようと思って、改めて呼びかけた。 21しかし人々は、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けた。 22ピラトは三度目に言った。「いったい、どんな悪事を働いたと言うのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」 23ところが人々は、イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続けた。その声はますます強くなった。 24そこで、ピラトは彼らの要求をいれる決定を下した。 25そして、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求どおりに釈放し、イエスの方は彼らに引き渡して、好きなようにさせた。
26人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。 27民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った。 28イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。 29人々が、『子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来る。
30そのとき、人々は山に向かっては、
『我々の上に崩れ落ちてくれ』と言い、
丘に向かっては、
『我々を覆ってくれ』と言い始める。
31『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか。」
32ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。 33「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。 34〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。 35民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」 36兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、 37言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」 38イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。
39十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」 40すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。 41我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」 42そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。 43するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
44既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。 45太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。 46イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。 47百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。 48見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。 49イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。

🌸 分かち合い
今日は受難の主日。2か月近く前の灰の水曜日から過ごしてきた四旬節が、いよいよ聖週間に入り、主の過ぎ越しの神秘を記念する時が近づいてきた。受難の主日は、以前「枝の主日」と呼ばれ、主イエスがエルサレムに入城されとき、人々が凱旋将軍を迎えるかのように、枝を振りかざしてろばに乗った主をお迎えしたことを記念する行列を大事にしていたが、今は、むしろ、その後の受難を中心に考えるようになった。
復活祭後の週日に読まれる「エマオへゆく弟子」の話の中で、イエスの十字架の死を目撃した二人の弟子が、通りがかった旅人姿のイエスに、何の話をしているか、と問われてこう言います、「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも、言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイエスラエルを解放してくださると望みをかけていました」(24.21)と。これこそ、イエスに従っていった弟子たちの正直な気持ちだったのでしょう。もうすべて終わりだ、失意と落胆のどん底に突き落とされた感じで、それぞれ、自分の家に戻ろうとしていたのでしょう。
しかし、実は、そうした悲しみと痛みの中から、神はイエスを立ち上がらせ、イエスに期待を寄せた弟子たちに希望の光を灯されたのです。受難と言う厳しい現実を通って、神だけが与えることのできる希望を心に抱き、復活されたイエスの霊、聖霊を受けて、福音を世に告げ知らせる使徒として新しい人生を歩み始めたのです。
わたしたしが聞いた受難物語は、そうした生まれ変わった弟子たちが信じ、生かされ、語り継ぐことになる福音の中核となるものでした。後に、復活されたイエスの啓示を受け使徒たちの仲間に加えられたパウロは言います、「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています」(1コリ1.23)と。このイエスの受難を経験した使徒たちがいなければ、その経験を書き記した受難物語を中核とする福音書がなければ、キリスト教は存在し、発展することはできませんでした。今日、あらためて、この福音を宣べ伝え、書き記した多くの初代教会の先輩たちに感謝しましょう。
今日の受難物語は、ルカから読まれました。ルカ福音書が記す一つの特徴だけ触れておきましょう。ルカが記す受難の歩み、十字架の道行きには、どちらかと言えば、「脇役たち」が多く登場することです。田舎から出てきたキレネ人のシモン、嘆き悲しむ大勢の婦人たち、イエスと共に十字架に付けられた二人の犯罪人、そして、その一部始終を目撃したローマ軍の百人隊長。そうしたわき役たちにも、苦しみにあえぐイエスが目を向け、声をかけられたことに心を留めましょう。こうした人々は、イエスが担われた 苦しみにとって代わることはできません。シモンが十字架をかついだのは、思いがけず、不承不承、しかも、道行きのほんの一部だけだったかもしれません。それでも、その間、イエスはひと時の安らぎを得られました。イエスの後に従った婦人たちは、何もすることができず、ただ、嘆き悲しむだけだったでしょう。悲惨な場面に居合わせた人の多くは、そうした無力さを感じます。犯罪人の一人は、自分たち罪人と同じ苦しみと恥辱を味わう、この偉人の中に、自分を救う不思議な光を見出したのでしょうか。道行きがつつがなく終了するよう監督する立場に置かれた百人隊長は、想像を絶する苦しみを甘受するイエスの姿に、ある種の神々しさ、この世ならぬものを感じたのかもしれません。彼は「この出来事を見て、神を賛美し、「本当にこの人は正しい人だった」とつぶやきます。
彼らは、それぞれの立場で、それぞれの担う苦しみを通して、イエスが忍ばれた苦しみに参加していたのです。それは、まさに、わたしたち一人一人に託された務めです。わたしたちは、皆、「主が苦しみを受け、十字架に付けられて死に、葬られた」ことを信じます。しかし、本当の意味で、それが自分のものになるためには、様々な苦しみを経験しなければなりません。病気や加齢から来る肉体的な苦しみ、別離の悲しみ、誤解や侮辱による精神的な痛み、そして、すべてのものを手放す死の訪れ。それらを通して、人は少しずつ、主の姿に近づきます。そして、それが、終わりに向かう過程ではなく、むしろ、真のいのちにいたる道、復活に通じる道であることを教えられるのです。受難の記念を通して、そうした恵みに一歩近づき、あらたな喜びをもって日々生きることができるよう、そして、様々な苦しみを担って人生を歩む人々が、その苦しみを通して、真の命のありかを悟る恵みを祈りましょう。(S.T.)