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教皇の意向:希望の巡礼者 (12月)

年間第六主日(2/11)

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イエスが深く憐れんで、手を差し伸べて

マルコ1:41
集会祈願

救いの源である神よ、ひとり子イエスのことばと行いによって、あなたの愛は世に現わされました。悩み、苦しみの中から救いを求めるわたしたちの声を聞き、きょうも慈しみの手を差し伸べてください。聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

🌸 第一朗読 (創世記3.16-19)

16神は女に向かって言われた。
「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。
お前は、苦しんで子を産む。
お前は男を求め
彼はお前を支配する。」
17神はアダムに向かって言われた。
「お前は女の声に従い
取って食べるなと命じた木から食べた。
お前のゆえに、土は呪われるものとなった。
お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。
18お前に対して
土は茨とあざみを生えいでさせる
野の草を食べようとするお前に。
19お前は顔に汗を流してパンを得る
土に返るときまで。
お前がそこから取られた土に。
塵にすぎないお前は塵に返る。」

🌸 答唱詩編 詩編32 典114 ①④

 主は豊かなあがないに満ち、いつくしみ深い。

わたしは罪をあなたに表し、
わたしのとがを隠さずに言う。
あなたはわたしの罪をゆるし、
わたしのとがを清めて下さい。  【答】

神に逆らう者は嘆きに包まれ、
神に信頼する人は恵みにおおわれる。
神に従う人は神のうちにあって喜べ。
心の正しい人はみな喜び歌え。  【答】

🌸 第二朗読 (一コリント10.31~11.1)

  31〔皆さん、〕あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。 32ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、あなたがたは人を惑わす原因にならないようにしなさい。 33わたしも、人々を救うために、自分の益ではなく多くの人の益を求めて、すべての点ですべての人を喜ばそうとしているのですから。1わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。

アレルヤ唱 典271 6B

アレルヤ、アレルヤ。偉大な預言者がわたしたちのうちに現れ、神は民を訪れてくださった。アレルヤ、アレルヤ。

🌸 福音朗読 (マルコ1.40-45)

マルコによる福音

 40〔そのとき、〕重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。 41イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、 42たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。 43イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、 44言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」 45しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。

奉納祈願

心も体もいやしてくださる神よ、救いのことばに力づけられて祈ります。感謝の秘跡を行うわたしたちが十字架の苦しみに結ばれ、復活の喜びにあずかることができますように。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

拝領祈願

いつくしみ豊かな神よ、救いの喜びに満たされて祈ります。聖霊に促されて遣わされるわたしたちが、神の言葉をのべ伝える者として力強く歩むことができますように。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

祈る花:Inoruhana
祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

 今日は、短い年間の季節の第六主日で、今週の灰の水曜日(14日)から四旬節に入ります。福音では、イエスの公生活の始めの部分が読まれました。他の福音書にも取り上げられる、重い皮膚病の人のいやしの場面です。現代に至るまで、世界中の人々を恐れさせてきた不治の病の一つで、イエスラエル社会でも、律法によってこの病気は特別に「汚れ」とみなされ、社会から排除される扱いを受けてきました。病気からくる苦しみ、痛みに加え、共同体から排除される孤独、無力、絶望を味わわされた人々です。

 イエスのうわさを聞いても、容易に近づくことができない無言の壁があったはずですが、この重い皮膚病を患っている人は、「イエスのところに来てひざまずいて願い、『御心ならば、わたしを清くすることがおできになります』」と言います。すると、イエスは、「深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れた」とあります。人々に恐れられ、隔離されて生きることを余儀なくされた人に対して抱かれた、あわれみの心は一体どこからきたのでしょうか。神の子だから、当然のことだったのでしょうか。天の高みにおられる神ご自身も、人々の世界を御覧になり、その苦しみと痛み、悩みと悲しみ、無力さと絶望、そのすべてを受け止め、あわれみの業をあらわされたことは、旧約聖書から学ぶことができます。

 しかし、人となられた神の子、イエスは、その隠れた30年に及ぶ生活の中で、いたいけな幼児として、鋭気にあふれた少年として、さらには、夢を抱く青年、一家を支える家長として、人々の世界にあふれる様々な問題:いがみ合い、争い、妬み、憎しみ、そして、その中で弱い人々が経験する苦しみ、悲しみを日々目撃し、その声にならない叫びを聞き取っておられたに違いありません。そして、そのために心を痛め、自らも苦しみ、その癒しを願う祈りを捧げておられたことでしょう。人々の前に現われ、公の活動を始められたとき、そうした人々の惨状が何よりも先に、目に入ったとしても、不思議ではありません。

 イエスは言われます、「よろしい、清くなれ」と。すると「たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった」とマルコは記します。病人に触れ、一言で病気を癒す、これは、旧約の預言者も、滅多にすることはありませんでした。預言者エリシャがシリアの王の家臣、ナアマンを癒したことが例外的に記されているだけです。イエスの深いあわれみは、天の高みから、地上を見下ろす神の眼差しではなく、苦しみ悩み、絶望するものと同じレベルにまで降った方が、示される病める者、痛みを負う者への共感の心です。自らも、同じ苦しみと孤独を経験し、無力を味わったものが、はじめて持つことのできる深い慈しみの心です。

 かつて、信仰ゆえにすべてを投げ打ち、長く厳しい追放と蔑みの生活を送り、ついに異国に流され、その地の土となった高山右近の、あの信仰はどこから来たのでしょうか。彼は、若き日に、家臣として仕えた高槻城主、和田惟長から、その人望と力ゆえに疑いをもたれ、暗殺計画がささやかれる中、思いもしなかった果し合いの末、自らも傷つき、惟長を死なせてしまうという、深い傷を負います。その取り返すことのできない負い目の中で、幼い時に洗礼を受けながら、十分学ぶことのなかった恵みの意味を、日々あらたな心で学び味わい、十字架の道を通して、人々を救うイエスのへりくだりに倣う恵みに導かれたと言われます。8日ほど前、記念日を祝った福者高山右近の生涯から、人は自らの弱さ、無力さの中で、はじめて、自分を超えた力を受け入れるものへと変えられることを教えられます。

 今日、イエスの深い憐れみによって癒された「重い皮膚病の人」の話について黙想しながら、わたしたちも、頭や理屈で考えるのではなく、自らの生活の中で、小さくされ、無力を感じさせられる、そうした痛い経験を通して、はじめて、自分を超えた力、イエスが人々に示された限りない慈しみの愛に、自らを委ねて生きる信仰の喜びを体験し、深めて行けますよう、主の導きと恵みを共にお祈りいたしましょう。(S.T.)

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御言葉の典礼を読み続く🌸

聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
どうぞよろしくお願い致します。

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