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教皇の意向:子を失った親 (11月)

年間第四水曜日(2/1)

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人々の不信仰に驚かれた

マルコ6:6

福者ユスト高山右近殉教者

集会祈願

🌸 第一朗読 (ヘブライ12.4-7、11-15)

 4〔皆さん、〕あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。 5また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。
「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。
主から懲らしめられても、
力を落としてはいけない。
6なぜなら、主は愛する者を鍛え、
子として受け入れる者を皆、
鞭打たれるからである。」
 7あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか
 11およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。
 12だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。 13また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。
 14すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません。 15神の恵みから除かれることのないように、また、苦い根が現れてあなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚れることのないように、気をつけなさい。

🌸 答唱詩編 詩編103 典93 ③⑥

アレルヤ唱 典272 ㉖

🌸 福音朗読 (マルコ6.1-6)

マルコによる福音

 1〔そのとき、〕イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。 2安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。 3この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。 4イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。 5そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。 6そして、人々の不信仰に驚かれた。
 それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。

奉納祈願

拝領祈願

祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

 故郷ナザレの人々の反応はどの福音書も記しており、ルカに至っては、イエスの活動のはじまり、いわば、第一声の後、人々がイエスをナザレの会堂から連れ出し崖から突き落とそうとした、とまで記している。ヨハネ福音書の序文の中にもこんな言葉がある、「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(1.10、11)と。人となられた神の子イエスは、故郷の人々だけでなく、神によって選ばれたイスラエルの民、御自分の民によって受け入れられなかった、と福音記者はそろって記しているのである。一体これはどういう意味だろうか。
人間には、人間を超えた存在が介入することを、根本的に恐れ、拒否する本能が働くのだろうか。神がどこか遠く、人間の手の届かない高いところにいる存在、あるいは、人間の必要な時にだけ、人間の求めに応じる、人間の操作に従う便利な道具のように考えているからだろうか。
イエスは、そうした人間の傲慢と不信に挑戦される。しかし、それは力によってではなく、自らの弱さによって、自らの十字架の死によってである。自らの貧しさ、弱さ、罪深さを認めるもの、労苦する者、重荷を負う者、それによって、心が砕かれ、心を神に開くものにだけ、御自分を現わされる。
わたしたちの内に潜む傲慢さ、尊大な心を認め、へりくだりの心が与えられ、そうした思いを深めることにつながるような経験を恐れずに受け入れ、少しでも、主の招きに応えて歩んでゆくことができるよう祈ろう。(S.T.)

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御言葉の典礼を読み続く🌸

聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
どうぞよろしくお願い致します。

2 comments

  1. 分かち合いにあるように、
    力によってではなく、
    ということを肝に銘じたい。
    つい、北風と太陽の北風になってしまう。
    家族親戚故郷の人々が神を受け入れないのは、、、ヨハネ福音書316以下にあるが、
    人間は人ひとり固有の存在。
    家族親戚故郷と十把一絡げにできない。それに一人の人間においても神の光を受け入れられる時と、そうでない時がある。
    ああ寒い!今日は天気が悪い。
    もっと光を!

    返信
  2. 現代における従順、謙遜とは何かを考える。
    人権、主権、そして憲法制定権力の主体である人間の一人として、身近な悪に異議申し立てをしないなんて人間の使命を放棄しているのではないか。
    虐待する者に異議申し立てをして殺されたら聖なる殉教だ。教会も殺された少女を聖人として記念している。
    三木清は自らの運命を使命と知るとき、喜びが湧く、との趣旨を家族への手紙で書いている。
    ヤミ米に手を出さずに餓死した裁判官がいた。(『われ判事の職にあり』)
    われ人間の職にあり!

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