人間にできることではないが、神にはできる。
神は何でもできるからだ。
🌸 第一朗読 (シラ17・24-29)
主は、24悔い改める者には、立ち帰る道を開き、
耐える力を失った者を励まされる。
25主に立ち帰り、罪から離れよ。
御前で祈り、罪を犯す機会を遠ざけよ。
26いと高き方に立ち戻り、不正に背を向けよ。
〔主御自身が、お前を闇から救いの光に導いてくださるから。〕
忌まわしいものを憎みに憎め。
27陰府で、だれがいと高き方を賛美するだろうか。
生きている者と違って、だれが感謝の言葉をささげるだろうか。
28死んで、もはや存在しない人からは、感謝の言葉も消えうせる。
生きていて健やかなときにこそ、人は主を賛美する。
29なんと偉大なことか、主の憐れみと、
立ち帰る者への贖いとは。
🌸 答唱詩編 詩編32 典114①②
答:主は豊かなあがないに満ち、いつくしみ深い。
わたしは罪をあなたに表し、
わたしのとがを隠さずに言う。
あなたはわたしの罪をゆるし、
わたしのとがを清めてくださる。【答】
あなたはわたしの隠れ場、
苦しみからわたしを助け出し、
救いの喜びで
覆ってくださる。【答】
アレルヤ唱 典273(26C)
アレルヤ、アレルヤ。イエス・キリストは富んでおられたのに、貧しくなられた。あなたがたがキリストの貧しさによって富むように。アレルヤ、アレルヤ。
🌸 福音朗読 (マルコ10・17-27)
マルコによる福音
そのとき、17イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」18イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。19『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」20すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。21イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」22その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。
23イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」24弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。25金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」26弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。27イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」
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🌸 分かち合い
今日はある金持ちの話をしよう。つまり、自分は金持ちだと信じていた、あるいは物質的な豊かさが自分の幸せだと信じていた男の話だ。彼は善意の人で、イエスに尋ねた:
「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」
「あなたは戒めを知っている」とイエスは言われ、それから、他者との関係に関わる戒めだけを列挙し、神に直接関係する戒めは省かれた:殺してはならない、姦淫してはならない、盗んではならない、偽証してはならない、詐取してはならない、父母を敬え。すると男はこう答えた:
「先生、私は若い時からこれらすべてを守ってきました。」
両親を敬い、罪深いことを一つもしなかったという点で、彼は実に良い人でした。
イエスはその人を本当の愛で見つめられた。 これは愛情や魅力の愛ではない。 アガペーの愛であり、相手のために最善のことを望む愛である。 この男は善良であったが、イエスは彼がさらに善良であることを望まれた。 そこでイエスは彼に言われた:
「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
それを聞いて、その男の顔は曇った。彼はとても金持ちだったので、悲しみに満ちてゆっくりと歩いて行った。 イエスは、彼があきらめることのできないもの……自分が神から特別に祝福されていることを示すと男が信じていたもの……を求めたのだ。 その男は、このことを予期していなかった。
彼が去った後、イエスは弟子たちを見て言われた:
「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」
今度は弟子たちが心配し、ショックを受ける番だった。当時の彼らの社会の伝統は、富は神の祝福の明らかなしるしであり、貧しさは神からの呪いであると考えていた。
イエスは彼らの誤解を解いた:
「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。 金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」
つまり、まったく不可能なのだ。 これは彼らにとって、あまりにも大きなことだった。弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。
現世でうまくいった人たちが救われないとしたら、敗者にどんな望みがあるというのか。 彼らがイエスの言葉の真理を学ぶには時間がかかるだろう。 そしてそれは、私たちクリスチャンの多くがまだ学ばなければならない教訓でもある。
金持ちが神の国に入るのはなぜそんなに難しいのか? 金持ちであることに何か問題があるのだろうか? その答えは、私たちが「金持ち」と「神の国」にどのような意味を与えるかによる。
ヨーロッパやアメリカでは経済的に低いレベルの人でも、アフリカやアジアのある国に住んでいれば、同じ資源で非常に裕福になれるかもしれない。 同様に、人里離れた村の「豊かな」農民は、ヨーロッパで生活保護を受けている家族に比べれば原始的な生活をしているかもしれない。
イエスが “金持ち “という言葉を使うとき、それは周りの人たちよりも多く、たくさん持っている人を意味する。 そのような状況下で、人が自分の物質的な財にしがみつき、比較的贅沢な生活水準を享受する一方で、周囲の人々が食べ物や住居に事欠くというのは、イエスと御国が掲げるすべてに反することである。
そして、ここで言う「神の国」とは、「天国」での将来の生活を指しているのではないことを強調する必要がある。 イエスは金持ちが天国に行けないと言っているのではない。 その金持ちが今どのように生きているかに関心があるのだ。 神の国とは、真理と誠実さ、愛と憐れみと正義と財貨の分かち合いが支配的で、人々が互いを大切にするような状況、人間関係のことである。
物語の中の男は、戒めを守っていると言った。 ひとつを除いて、すべてが否定的に表現されていることに気づくべきだ。その男は、何もしなくてもいくつかの戒めを守ることができた! イエスは彼に、非常に積極的なこと、つまり、困っている兄弟姉妹に自分の繁栄を分け与えることを求めていたのだが、彼にはその準備ができていなかった。 そのため、彼は御国に行く準備ができていなかった。 彼はイエスの弟子にはなれなかった。 また、同じような境遇にある人たちも同様である。
また、この教えは個人だけでなく、共同体、さらには国家にも当てはまることを付け加えておこう。 今日の世界には、非常に高いレベルの繁栄を謳歌し、あらゆる種類の消費贅沢品が手に入る国がある一方で、貧困、飢餓、病気にまみれて生活している人々が非常に多く存在する。 これは現代の大きなスキャンダルのひとつである。 これは王国の状況ではなく、その多くは心ない神や自然現象によるものではなく、ただ余剰の富を分かち合おうとしない人間によって引き起こされている。 よく言われるように、本当に裕福なのは、必要なものが最も少ない人たちなのだ。
最後の考察である。 私たちの社会では、私たち個人はどう考えても金持ちとは呼べないので、この話は自分には当てはまらないと感じるかもしれない。しかし、お金以外のものに縋ることはできる。今日、自分の人生の中で、神に求められたら手放すのが難しいと思うものがあるかどうか、自問してみるのも有益かもしれない。それは人間関係かもしれないし、仕事や地位かもしれないし、健康かもしれない。
イエスの弟子になるということは、無条件で、何のしがらみもなく、何から何まで手放す覚悟でイエスに従うよう、イエスが私に求めておられるということなのだ(実際にはイエスは私にそうするよう求めないかもしれないが)。 大切なのはその覚悟である。 この物語の男は、それすら持っていないように見えた。カトリック教徒は大富豪になるべきか? あなたはどう思いますか? イエスならどう答えると思いますか?
LivingSpaceより