正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる
集会祈願
🌸 第一朗読 (フィリピ2、1-4)
1〔皆さん、〕あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、 2同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。 3何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、 4めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。
🌸 答唱詩編 詩編131 典74 ①②
アレルヤ唱 典271 ⑧
🌸 福音朗読 (ルカ14、12-14)
ルカによる福音
12〔そのとき、イエスは招いてくれた人にも言われた。〕「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。 13宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。 14そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」
奉納祈願
拝領祈願
🌸 分かち合い
宴会に関連する話が続く。聖書の中で、宴会は神が催される神の国での宴のたとえ。貧しい人には、宴会等縁がないかもしれないが、当時の社会で宴会があちこちで催されていたことは知っていただろう。イエスは、宴会には、友人、兄弟、親類、近所の金持ち等、だれもが、招待するような人は呼ぶな、と言われる。むしろ、「貧しい人、からだの不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい」と。
こんな言葉を聞いて、当時の人々も驚いたに違いない。冗談じゃない、それでは、宴会はぶちこわしになるではないか、と。喜びを分かち合うためには、まずは、気心の知れた仲間を第一に考えるだろう。
イエスは、単なる宴会の作法を教えているのではなく、むしろ、神の国のことを言っておられる。神の国には、思いがけない人たちが呼ばれている。人間的に見れば、いろいろハンディを負った人、社会では忘れられ、のけ者にされ、無視される、そんな人、自分からは何も貢献することがない、人に迷惑ばかりかけ、敬遠される、そんな人が呼ばれていて、皆幸せな顔をしていたら、何を感じるだろうか。
あなたも、そんな宴会に呼ばれている。それなら、あなたも、そのような人を喜んで招く人にならなければ、決して、幸せになれない、そんなことを言っておられるのではないか。(S.T.)
イバン・イリイチだったら、「コンビビアル」というでしょうね。
障害者とマイノリティー。実はみんな障害者・マイノリティーなのに多数派ぶって力を誇示したいだけかも。
コスプレって一見個性的だがホントは今日じゃなく人それぞれ、したい時にすればよいのに。
聖霊のささやきに従って生きたい。
この世の基準に従って生きないで。
ローマの信徒への手紙12章2節。
母のみならず生活費も持ち出され、意気消沈し、いよいよ自分も生活保護を申請するため福祉課に行った時、
夫も子どももある職員から自動車の使用と生協の宅配サービスをやめるように言われた。
地方では車がないと事実上、買い出しに行くのが大変で、生協の宅配サービスもダメとなると非常に困る。
しばらく近所の人々が持って来てくれる米や野菜や果物で生きたが、
生活保護を受けると、どれ程自由が奪われるかを実感し(憲法学者中村睦男の社会権保障における自由の主張、経済学者ハイエクの隷属への道の警告、日本のみならず人権人道番外地としてのムラ社会から時に移動する自由がどれ程大切か・例えばバートランド・ラッセルが幸福論の中で確か作家ブロンデ姉妹を引き合いに論じた気がする。ともかくソウル・メイトと会えない日常はいじめで自殺した少年が言った通り「生き地獄だ」。徴税人罪人娼婦自由同盟の僕としては車の使用は死活問題だ。昨日ザアカイ・ミサに与れたのも車と人々と神のお陰。とはいえ排ガス車であるのが気になっている)
結局、バイトと派遣の掛け持ちを始めた(もっともこれも今、識別中)。
とはいえ、福祉課職員の上述の言葉はまずいと先日抗議したが、その職員も為政者の脅迫(例えば奨学金と称して国が高利貸しをしている。一円でも節約!が若き母の心となってしまうだろう。実際派遣先の介護施設の先輩で多くの子どもの母は生協宅配サービスのレトルトを独り者はよいが子ども全員に食べさせれば破産する!と言った。)ゆえの発言だろうとさっき訂正の電話を入れた。
1999年頃から貯蓄から投資ヘと日本政府もカジを切り、数年前も老後に最低二千万円必要と金融庁は発表した。
これでは目の前の仕事に専念するより、あるいは同時に、
マネーゲームで金を増やすしかない。労働現場や生活空間と人間と仕事そのものが劣化するのは当然であり、すべてを金儲け目的に収斂させるのは、およそ国・家とは言えない。
我々が、貧しき人々は幸いなりを実践・証明することと、苦しみの連帯・霊的連帯を実践すること、そしてトマス・モアのように相手が為政者であろうと直言する勇気と幸いを味わうしかないと思う。
何か忘れたが、うれしいことがあったあと(LOVE actually all around !)、丁度イグナチオ教会のカレーの会のあとだった。グレープジュースを4、5本買って、まだ残っている人々とベンチで飲んだ。
ここが微妙だが、その人々がいるベンチがいっぱいだったこともあるが、少し離れたベンチで僕は飲んだ。
できれば、おにぎり仲間のおにぎりも、カレーも、その人がホームレスか否かに関わらず、一緒に食べたい。ただ、今そう思っていても自分が、世界内的価値観で最悪の事態にいるホームレスの人々と、全く分け隔てなく、その時、果たしてリラックスして食べられるかわからない。その時のコンデイションによる。食事は休息でもあるから。ただ、ファリサイ派と食事をするよりリラックスできそうだ。
イエス様のすごさは誰とでも食事ができること。
ぁ!でもイエス様も舟の中で寝たり、沈黙したり、地面に絵を描いたり、相手がまともに答えなければ答えなかったり、コンデイションを整えて臨機応変に対応している。
ただ、臨機応変はあくまで最低の状況にある人を支えることが基盤。なぜなら、最低の状況の人が救われれば、実はすべての人は既に救われているはずだから。
救済を知らせること。福音を知らせること。
実は大丈夫なのに不安にさせたりしないこと。せめて為政者には若者が今日、渋谷あたりに出なくても世界と人生に乗り遅れたりしないことを鮮明にして頂きたい。
午睡のあと、今頃から洗濯物を干す下僕。
イバン・イリイチなら「コンビビアル」というところだろう。ところで、一昨日あたりから始まっているばか騒ぎ・空騒ぎに障害者は参加しているのか。多数が参加しているようで、他者を排除している騒ぎのように思われる。画一的。多くの死者が出たのは悲しいが。他者も参加していたなら死者は出なかったのではないか。
鋭い!
今、イリイチの『コンヴィヴィアリティのための道具』渡辺京二!渡辺梨佐!訳・ちくま学芸文庫21頁が偶然出た。
様々なる医称「認知症」老人介護施設や強制収容所(極東ムラ社会では精神病院と称する)で感じたことが端的に書いてある、、。
定義の乱用と薬物乱用、そして拉致監禁乱用。なんのために?カネ、つまり偶像崇拝。
愛すべきは命ある者なのに。
ソウルの事件を再び起こさないためにも緊急司牧をおねがいします。
今日の福音を見て思ったのはやさしい司牧が必要。我が身を僕も顧みなければ。
マザー・テレサも弱い人と話すときは言葉遣いに気をつけなさいと。
僕は相当まずい。
ちょっと朝メシの続きと友との電話の続きを再開します。