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教皇の意向:子を失った親 (11月)

年間第二十三月曜日(9/9)

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安息日に律法で許されているのは、命を救うことか、滅ぼすことか。
集会祈願

🌸 第一朗読 (一コリント5:1-8)

使徒パウロのコリントの教会への手紙

 1〔皆さん、〕現に聞くところによると、あなたがたの間にみだらな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしているとのことです。 2それにもかかわらず、あなたがたは高ぶっているのか。むしろ悲しんで、こんなことをする者を自分たちの間から除外すべきではなかったのですか。 3わたしは体では離れていても霊ではそこにいて、現に居合わせた者のように、そんなことをした者を既に裁いてしまっています。 4つまり、わたしたちの主イエスの名により、わたしたちの主イエスの力をもって、あなたがたとわたしの霊が集まり、 5このような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それは主の日に彼の霊が救われるためです。 6あなたがたが誇っているのは、よくない。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。 7いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。 8だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。

🌸 答唱詩編 詩編119 典75 ②③

アレルヤ唱 典272 ㉖

🌸 福音朗読 (ルカ6:6-11)

ルカによる福音

 6〔ある〕安息日に、イエスは会堂に入って教えておられた。そこに一人の人がいて、その右手が萎えていた。 7律法学者たちやファリサイ派の人々は、訴える口実を見つけようとして、イエスが安息日に病気をいやされるかどうか、注目していた。 8イエスは彼らの考えを見抜いて、手の萎えた人に、「立って、真ん中に出なさい」と言われた。その人は身を起こして立った。 9そこで、イエスは言われた。「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」10そして、彼ら一同を見回して、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。言われたようにすると、手は元どおりになった。 11ところが、彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った。

奉納祈願

拝領祈願

祈る花:Inoruhana
祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

 先日に続いて安息日に関する話し。今日の直前の箇所では、安息日に麦の穂を摘んで食べたことをとがめたファリサイ派の人々へのイエスの対応だったが、今日は、病気のいやしも安息日の掟に反するとする律法学者やファリサイ派の人々の考えに対するイエスの挑戦がテーマである。
 安息日の掟によれば、安息日には一切の仕事を控える、ということで、病人の治療行為さえも、それが命にかかわることでなければ禁止されていた。イエスは、敢えて、そうした考え方に挑戦される。手の萎えた人、と言えば、直ちにいのちにかかわる病人ではなく、翌日に延ばすこともできる。しかし、イエスは敢えてその人に「手を伸ばしなさい」と言い、その人の承諾をもって、いやしの業を行われた。イエスの行いを見て、彼らは怒り狂い、イエスを何とかしようと話し合った、とある。
 いやしの業に先立ってイエスは言われる、「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか」。安息日の掟は、十戒に定められた大事な掟。しかし、律法の根本にある、神への愛と隣人への愛は、掟に勝るものであることを、わたしたちに思いださせるのではないか。
 一度定められた規則を、つい絶対視しようとする人間のあやまち、かたくなさを退け、その根本にあるもの、命の尊厳、人格の尊重を、命を懸けて守ろうとされたイエスの思いにしばし心を向けよう。(S.T.)

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御言葉の典礼を読み続く🌸

聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
どうぞよろしくお願い致します。

1 comments

  1. 「命にかかわることでなければ禁止」
    しかしイエスは安息日に手の萎えた人を癒やされた。
    人を殺すことは悪いことだということは圧倒的多数が認めるが、ある特定の人を社会的に抹殺することは世の圧倒的多数の人々が得意とすることだろう。
    イエスは形式的法治主義という構造的暴力に挑戦されたように思う。

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