聖マリア・マグダラ 祝日(7月22日)
集会祈願
私たちの父である神よ、マグダラの聖マリアは、復活の喜びを伝える最初の人となる恵みを受けました。聖女の祈りと模範に支えられて、私たちも復活されたキリストを宣べ伝え、その栄光を仰ぎ見ることができますように。聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。
🌸 第一朗読 (雅歌3:1-4a)
〔おとめは歌う。〕
1夜ごと、ふしどに恋い慕う人を求めても
求めても、見つかりません。
2起き出して町をめぐり
通りや広場をめぐって
恋い慕う人を求めよう。
求めても、あの人は見つかりません。
3わたしが町をめぐる夜警に見つかりました。
「わたしの恋い慕う人を見かけましたか。」
4彼らに別れるとすぐに
恋い慕う人が見つかりました。
🌸 答唱詩編 詩編63 典167①④
答:わが心、喜びに満ち溢れ、主を待ち望む。
神よ、わたしの神よ、わたしはあなたを慕う。
水のない荒れ果てた土地のように、
わたしの心はあなたをしたい、
からだはあなたをかわき求める。 【答】
床の中であなたを思い起こし、
夜通し、あなたのことを思う。
あなたはわたしの助け。
あなたの翼のかげにわたしはかくれる。 【答】
アレルヤ唱 典265⑪
アレルヤ、アレルヤ。主キリストは復活された。勝利の王、キリストよ、あふれる慈しみをわたしたちに。アレルヤ、アレルヤ。
🌸 福音朗読 (ヨハネ20:1-2、11-18)
ヨハネによる福音
週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。 2そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」
11マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、 12イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。 13天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」 14こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。 15イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」 16イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。 17イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」 18マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。
奉納祈願
慈しみ深い父よ、マグダラの聖マリアの愛の奉仕が、御子イエスに受け入れられたように、子の祝日に捧げるわたしたちの供え物を、み旨にかなうものとして受け入れてください。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。
拝領祈願
いのちの源である神よ、救いの秘跡にあずかって祈ります。主キリストに絶えず従ったマグダラの聖マリアのひたむきな愛を、私たちの心に満たしてください。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。
🌸 分かち合い
マグダラの聖マリアの生涯説と教皇フランシスコによる教令「マグダラの聖マリアの祭儀について」はこちらをクリックしてください。
今日の福音書は私たちに「復活体験」が「復活したイエスを見た体験」であるということを示しています。ヨハネ福音書は次のように語りました。マグダラのマリアは週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに墓に行きました。墓に着いて空の墓を見つけると、すぐ弟子たちのところに走って行って告げました。ペトロともう一人の弟子は墓に走って行って、空の墓を見て、家に帰って行きました。そして、ヨハネ福音書はマグダラのマリアが墓の外に立って泣いていたということを語っています。
恐らく、マリアはペトロともう一人の弟子に告げて、そして彼らについていって、走って墓に戻ったでしょう。マリアは泣きながらイエスの遺体を探して、墓の中を見ると、二人の天使たちを見ました。これは本当に恐ろしい場面でしょう。彼女はイエスの遺体の代わりに白い衣を着た二人の天使を見ました。私はこの場面を見たら死ぬかもしれません。霊的に考えてみれば、マリアは悲しみのなかで、イエスを見ることができなかったのですが、イエスの復活のしるし、またはイエスの栄光を見ました。イエスの栄光は天使とともに現れるのです。私はイエスがナタナエルに言った言葉を思い起こしました。「天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる」(ヨハネ1:51)。この言葉はマリアの場面によって、実現されたのではないかと思います。
それから、マリアは園丁に会って、この園丁と会話をしました。会話の内容はイエスの遺体がなくなったということです。会話の中で、園丁はマリアの名前を呼んで、マリアはこの呼び方、この声がイエスのようだと思いました。それで、マリアは喜びに満ち溢れ、復活したイエスが見えたと感じています。この喜びは、ペトロ、ヤコブとヨハネが高い山でイエスの姿が変わるという栄光を体験する喜びのようではないでしょうか。マリアも弟子たちもこの喜びにずっととどまりたがっています。しかし、弟子たちは山を降りてはならない、マリアは弟子たちのところに行かなくてはならないということになります。あの山で、弟子たちは「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことを誰にも話してはならない」とイエスに命じられました。ところが、マリアは今見たことを弟子たちに知らせなければならないとイエスに命じられました。「マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、『わたしは主を見ました』と告げ、また、主から言われたことを伝え」ました。
マリアの体験のように、私たちは時々体験したでしょう。例えば、苦しんでいる時に、誰かと話して、または祈りのうちに聖書を呼んで、解放されて、癒されてという経験があり、あるいは苦しんでいるひとが私たちに来て、分かち合って、そして癒されたという経験もあったでしょう。また、時々園丁のような貧しい人々に出会って、復活したイエスを感じるという経験もあったと思います。どうか、イエスの復活を深く味わうことができるように、また、マグダラのマリアのようにイエスを深く愛することができる恵みを願い求めたいと思います。