なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか
聖ヨハネ・クリゾストモ司教教会博士(記)
集会祈願
🌸 第一朗読 (一コリント9:16-19、22b-27)
16〔皆さん、〕わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。 17自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう。しかし、強いられてするなら、それは、ゆだねられている務めなのです。 18では、わたしの報酬とは何でしょうか。それは、福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝え、福音を伝えるわたしが当然持っている権利を用いないということです。
19わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。
22すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。 23福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。
24あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。 25競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。 26だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。 27むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです
🌸 答唱詩編 詩編84 典102 ①⑥
アレルヤ唱 典268 ⑲
🌸 福音朗読 (ルカ6:39-42)
ルカによる福音
39〔そのとき、イエスは弟子たちに〕たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。 40弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。 41あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。 42自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。
奉納祈願
拝領祈願
🌸 分かち合い
ルカによる、山上の説教が続く。ルカはマタイほど、多くの言葉を記していないが、それだけに、イエスのインパクトの強い言葉が選ばれている、と言えるかもしれない。マタイでは、偽善者に対する厳しい言葉が溢れるほどに登場するが、ルカは、単刀直入にイエスの言葉を記す、「盲人が盲人の道案内をすることができようか」と。
パラリンピックが人気を集める現代、少々差しさわりのあるたとえかもしれないが、イエスの意とするところははっきりしているし、実に的をついている。
自分は知っている、わかっている、見たことがある、行ったことがある。情報がこれほど飛び交い、交通手段がこれほど便利になった現在、だれもが、こうした思いこみ、錯覚を抱いているとしても不思議ではない。
「自分の目にある丸太を取り除く」。実は、これほど難しいことはないのではないか。人間の目は、自分の外の世界を見るために与えられている。しかし、自分自身の姿は容易には自分には見えない。そこから、つい、自分の姿を理想化したり、自分には一切問題がないかのような錯覚に陥ってしまう。どうすれば、自分の本来の姿を見ることが出来るのだろうか。自分の姿を映し出してくれる鏡とは何だろうか。期せずして自分に向けられる他人の評価を素直に受け入れること。あるいは、人間の心の中を見通される神の前に、素直に自分を置く習慣を身に着けること。いずれにしても、本来の自分を知るための謙遜を身に着けることではないか。(S.T.)