王であるキリスト 祭日(11/23)
すべてのものは御子によって支えられています
🌸 第一朗読 (サムエル下5:1-3)
サムエル記
1〔その日、〕イスラエルの全部族はヘブロンのダビデのもとに来てこう言った。「御覧ください。わたしたちはあなたの骨肉です。 2これまで、サウルがわたしたちの王であったときにも、イスラエルの進退の指揮をとっておられたのはあなたでした。主はあなたに仰せになりました。『わが民イスラエルを牧するのはあなただ。あなたがイスラエルの指導者となる』と。」 3イスラエルの長老たちは全員、ヘブロンの王のもとに来た。ダビデ王はヘブロンで主の御前に彼らと契約を結んだ。長老たちはダビデに油を注ぎ、イスラエルの王とした。
🌸 答唱詩編 詩編122 典173 ①②③
わたしたちは神の民、そのまきばの群れ。
「神の家に行こう」と言われて、
わたしの心は喜びにはずんだ。
エルサレムよ、わたしたちは今、
おまえの門のうちに立っている。
しげく連なる町、エルサレム、
すべての民の都。
そこにはイスラエルの部族、
神の民がのぼって来る。
イスラエルのおきてに従い、
神に感謝をささげるために。
そこにはさばきの座、
ダビドの家の座がすえられている。
🌸 第二朗読 (コロサイ1:12-20)
使徒パウロのコロサイの教会への手紙
12〔皆さん、わたしたちは、〕光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなたがたがあずかれるようにしてくださった御父に感謝するように。 13御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。 14わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。 15御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。 16天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。 17御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。 18また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。 19神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、 20その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。
アレルヤ唱 典266 王であるキリスト
アレルヤ、アレルヤ。主の名によって来られるかたに賛美。わたしたちの父、ダビドの国に祝福がありますように。アレルヤ、アレルヤ。
🌸 福音朗読 (ルカ23:35-43)
ルカによる福音
35〔そのとき、議員たちはイエスを〕あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」 36兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、 37言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」 38イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。
39十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」 40すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。 41我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」 42そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。 43するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

🌸 分かち合い
今日は、年間の最後の主日、王であるキリストの祭日です。この1年の間にいただいた様々な恵みに感謝するとともに、来週から始まる新しい典礼年に向けて、わたしたちが主と仰ぐ王であるキリストは、どのような方であるか、どのような王に従ってゆこうとしているかを、一人一人自分なりに考えてみるときだと言えます。
第一の朗読(サムエル記下)では、ダビデがヘブロンでイスラエルの王になったことが読まれました。ダビデは、ヘブロンで7年、エルサレムで33年、イスラエルを治めたと聖書は記しています。ダビデは、イスラエルを強い国に発展させながら、神への忠実を守り、理想の王として、尊敬されていますが、彼の後を継いだソロモン以下歴代の王の大半は、神への信仰から離れ、異教の風習に染まり、社会にも、様々な悪弊が広まりました。イスラエルの歴史を書いた記者は、イスラエルの悲惨な歴史は、民を導くべき王たちの不徳によると、厳しく断罪しています。
時代が進んで、イスラエルの地に、「ユダヤ人の王」と噂されるイエスが登場し、神の言葉を語った時、多くの人々はそれに聞き入ったが、怪しむ者もいました。当時のイスラエルの指導者である祭司、律法学者、長老たちは自分たちの権威を脅かすイエスを放置できず、裁きの座に引き出し、総督ピラトの手により十字架刑に処しました。
今日の福音(ルカ)の中で、十字架に付けられたイエスに対し、衆議会の議員も、ローマ軍の兵士も、同じ十字架に付けられた犯罪人の一人も、皆、似たような言葉を吐きます。「もし、お前が神からのメシアなら、選ばれた者なら」、「ユダヤ人の王なら」、「自分を救ってみろ」と。
「自分を救う」、それは、きれいな言葉、自立した人間の考えに聞こえます。しかし、自分の知恵、力、経験、そうした自分のもてるもので何事も解決できる、という考えには、すべての人間が陥る一つの誘惑、大きな落とし穴があります。自分の問題、自分の家族、自分の仕事、自分の国が抱える問題、それは、すべて、人間が自分の力で解決できる、と考えがちです。しかし、自分を根本において生かし、支え、導く神への信頼、神への開きがなければ、人間の努力はどこかで挫折するものです。
イエスとともに十字架につけられたもう一人の犯罪人は、そのことを悟っていたのでしょうか。自分のあやまちを認め、イエスに懇願します、「あなたの御国においでになるとき、わたしを思い出してください」。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。イエスは、人を救いに導くだけでなく、自ら、主である神にすべてを委ねる僕として、生涯を全うされました。それこそが、神が求めておられた、まことの「イスラエルの王」の姿なのです。
現代の教会にとって、牧者として、イエスの姿をもっとも明白な形で示される教皇フランシスコは、わたしたちに何を語っておられるでしょうか。すでに語られた多くの言葉、そして、その振舞いから、教皇が、それまでとは違う、僕としての姿を全世界に示しておられることは疑うことができません。貧しさに徹し、人々の苦しみに心を開き、少しでもそれに寄り添い、支えようと、イエスが生きられた「王の道」を、教皇自ら生き抜いておられます。このことを感謝の内に心に留め、少しでも、それに倣う恵みを、一人一人のため、日本の教会全体のために、共にお祈りいたしましょう。(S.T.)
