真理に属する人は皆、わたしの声を聞く
集会祈願
全能永遠の神よ、あなたはキリストうを死者の中から復活させ、いつくしみ深く万物を治める王としてくださいました。招きにこたえて一つに集まるわたしたちを導き、神の国のために働く力を授けてください。聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、私たちの主イエス・キリストによって。アーメン。
🌸 第一朗読 (ダニエル7.13-14)
13夜の幻をなお見ていると、
見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り
「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み
14権威、威光、王権を受けた。
諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え
彼の支配はとこしえに続き
その統治は滅びることがない。
🌸 答唱詩編 詩編93 典39 ①②③
答 神のいつくしみをとこしえに歌い、
主のまことを代々に告げよう。
神は王。栄光に満ち、
偉大な力を身に帯びておられる。
神は世界をゆるぎなく建て、
とこしえに王座をすえ、
永遠に座しておられる。 【答】
潮の流れは声をあげる。
潮の流れはどよめきの声をあげる。
とどろく海、さかまく波にまさり、
すべてを越える神は力強い。 【答】
神よ、あなたのことばは変わることなく、
あなたの家はとこしえにとうとい。
栄光は父と子と聖霊に。
初めのように今もいつも世々に。アーメン。【答】
🌸 第二朗読 (黙示録1.5-8)
5証人〔であり、〕誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。
わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、 6わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン。
7見よ、その方が雲に乗って来られる。
すべての人の目が彼を仰ぎ見る、
ことに、彼を突き刺した者どもは。
地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ。
然り、アーメン。
8神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」
アレルヤ唱 典266 王であるキリスト
アレルヤ、アレルヤ。主の名によって来られるかたに賛美。わたしたちの父m、ダビドの国に祝福がありますように。アレルヤ、アレルヤ。
🌸 福音朗読 (ヨハネ18.33b-37)
ヨハネによる福音
33〔そのとき、ピラトはイエスに〕「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。 34イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」 35ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」 36イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」 37そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」
奉納祈願
恵みあふれる神よ、あなたはキリストの死と復活によって、すべての人を罪から解放してくださいました。主の過越を記念するこのうたげを通して、わたしたちが愛とゆるしに満たされますように。私たちの主イエス・キリストによって。アーメン。
拝領祈願
信じるものの力である神よ、主キリストと深い絆で結ばれて祈ります。わたしたちが平和の王キリストに従い、み国の実現のために力を尽くすことができますように。私たちの主イエス・キリストによって。アーメン。
🌸 分かち合い
教会暦の最後の日曜日に、教会は毎年、「王であるキリスト」の祭日を祝います。若い時、といってもそんな昔のことではありません。教会はどうして、博物館に入ってしまったような王様を大事にするのだろうか、と思っていました。古代、あるいは、中世において絶対的な存在であった「王」を、20世紀の現代、こだわるのは時代錯誤も甚だしいのでは、と思いました。イグナチオが残した「霊操」の中にも、「キリストの王国」、「二つの旗」という黙想がありますが、これにも、しばらく抵抗を感じていました。
しかし、聖書を学び、イエスラエルの歴史を学ぶにつれて、聖書の中に記され、また、教会が大事にする王の姿は、一般に考えられるものとは、まるで違う、特に、キリストを王と仰ぐことは、ほとんど正反対であることを学びました。
今日の福音で読まれた箇所は、イエスが裁きの座に引き出され、時の総督ピラトから厳しく尋問される場面です。そこには、鞭打たれ、嘲笑され、息絶え絶えになった、いわば死を待つばかりの死刑囚のようなイエスの姿があります。しかし、そこでイエスの口から出る言葉は、まさに、王にふさわしい言葉と言ってよいでしょう。ピラトは尋ねます、「お前はユダヤ人の王なのか」と。「ユダヤ人の王」、それは、イエスがお生まれになったとき、東方から不思議な星に導かれて礼拝にやってきた博士たちの言葉に表れます。「ユダヤ人の王として生まれた方は、どこにおられますか」。さらに、イエスが十字架に付けられたとき、その頭上に張り付けられた罪状書きの言葉、「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」とも合致します。「ユダヤ人の王」、人々はイエスをそう呼び、信じました。しかし、イエスはピラトの問いに、肯定も否定もしません。逆に、「あなたは自分の考えでそういうのか。それとも、ほかの者が、あなたにそう言ったのか」と。イエスは、たとえ、王であったとしても、決してユダヤ人だけの王ではなかったのです。
イエスは、さらに続けます、「わたしの国はこの世には属していない」と。協会訳では、「この世のものではない」とありました。たしかに、イエスは「国」あるいは、「王国」について話されました。王を題材にしたたとえもいくつかあります。しかし、イエスの福音の中心となった「神の国」は、この世の王が治める「王国」ではなく、神が王として支配される世界のことです。この世の「王国」に代わって、「神の王国」を打ち立てるためにイエスは来られたのです。そこは、国土や境界、軍隊や法律が人々を縛り恐れさせる、力がものを言う世界ではなく、神の愛が、すべての人を生かし、力づけ、一致させる神の愛が、静かに、浸透し、広がり、根付いてゆく世界です。イエスは、そうした「神の国」を証しし、打ち立てるために人となり、自らのすべてを十字架の上でお捧げになったのです。
「それでは、やはり王なのか」と言うピラトの問いに、イエスは「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する者は人は皆、わたしの声を聞く」、と言われます。「真理」と訳された言葉は、もとをただせば、ヘブライ語の「まこと」を意味する言葉です。ラテン語や、ギリシャ語の「真理」は、とかく学問的な真理を連想させますが、聖書の世界で語られた、そのもととなる言葉は、神の本質を表す、「いつくしみ」(ヘセド=愛)と並行して使われる「まこと」(エメト=誠実、忠実)を意味します。詩編で歌われる「神の愛は力強く、そのまことは世々におよぶ」(詩編117)のまことです。イエスが証しなさろうとしたのは、そうした神のまこと、裏切られることのない、頼りになる、そのような存在であることを、しっかり心に刻みましょう。
イエスは、神が支配される世界、神の愛が浸透する世界を広げるために来られ、そのためにすべてをお捧げになりました。それも、言葉だけでなく、自らのふるまい、業を通して、そして、何よりも、苦しみと十字架の死を通して証しなさったのです。そのような方、すべての人に神の愛を告げ知らせ、自ら貧しく、小さなものとなり、そのへりくだりと従順のよって、すべてのものの王とされたキリストを心から礼拝し、従う恵みを願い、この錯綜する世界に、まことの愛と平和をもたらしてくださるよう祈りましょう。(S.T.)