「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」
集会祈願
🌸 第一朗読 (イザヤ40:1-5、9-11)
イザヤの預言
1慰めよ、わたしの民を慰めよと
あなたたちの神は言われる。
2エルサレムの心に語りかけ
彼女に呼びかけよ
苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。
罪のすべてに倍する報いを
主の御手から受けた、と。
3呼びかける声がある。
主のために、荒れ野に道を備え
わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。
4谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。
険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。
5主の栄光がこうして現れるのを
肉なる者は共に見る。
主の口がこう宣言される。
9高い山に登れ
良い知らせをシオンに伝える者よ。
力を振るって声をあげよ
良い知らせをエルサレムに伝える者よ。
声をあげよ、恐れるな
ユダの町々に告げよ。
見よ、あなたたちの神
10見よ、主なる神。
彼は力を帯びて来られ
御腕をもって統治される。
見よ、主のかち得られたものは御もとに従い
主の働きの実りは御前を進む。
11主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め
小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。
🌸 答唱詩編 詩編104 典68①⑤
答:神よ、あなたのいぶきを地のおもてに。
心を尽くして神をたたえよう。
神よ、あなたはまことに偉大なかた。
誉れと輝きを身に帯びて、
衣のように光をまとわれる。【答】
神よ、あなたが造られたものは数えきれない。
英知によって形造られたものは地に満ちている。
わたしは生涯、神に向かって歌い、
いのちのある限り神をたたえよう。【答】
🌸 第二朗読 (テスト2:11-14、3:4-7)
使徒パウロのテストへの手紙
〔愛する者よ、〕すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。 12その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、 13また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。 14キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。
わたしたちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたときに、 5神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。 6神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。 7こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。
アレルヤ唱 典
アレルヤ、アレルヤ。わたしより力ある方が来られ、聖霊と火によって洗礼を行われる。アレルヤ、アレルヤ。
🌸 福音朗読 (ルカ3:15-16、21-22)
ルカによる福音
〔そのとき、〕民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。 16そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」
21民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、 22聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
奉納祈願
拝領祈願
🌸 分かち合い
今日、教会は、主イエスが洗礼者ヨハネから、ヨルダン川で洗礼を受けられたことを記念する。人々の群れに交じって、人となられた神の子、イエスが、ヨハネから洗礼を受けられたことを想像すると、そのへりくだりに心動かされない人がいるだろうか。どうして、罪のない神の子が、洗礼を受ける必要があったのか、と考える人も少なくないだろう。だからこそ、その謙遜から学ぶことが多いのではないか。
しかし、教会が「主の洗礼」を記念するのは、ただ、イエスがヨルダン川で洗礼を受けられたという歴史的事実を思い起すだけではない。むしろ、主の洗礼の記念を通して、わたしたち皆がかつて受けた洗礼の意味を新たに考えることを勧めておられる。洗礼者ヨハネが授けていた洗礼に対し、わたしたちが受けた洗礼は、使徒言行録にあるような「イエスの名による洗礼」、あるいは、福音の中でヨハネが語ったように、「聖霊と火による洗礼」である。それは、ただ、悔い改めのしるしであるのではなく、主イエスの苦しみと十字架の死、そして、復活によってもたらされた神の命に与らせる洗礼である。
皆様の中には、幼児洗礼を受けた方もおられるし、成人してから洗礼を受けた方もおられる。幼児洗礼を受けた方も、初聖体や堅信を通して、あらためて自分の意思で、洗礼を受け止められたに違いない。どちらにしても、洗礼には、両面がある。神からの無償の恵みとしての面、そして、人間の側からの自由な答え。その二つがあって、はじめて洗礼が成り立つ。今日の第二朗読テトスへの手紙の中でパウロが言うように、「神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分のあわれみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。」
洗礼は、人生の中で一回だけ受けることのできる大きな恵みです。しかし、それはスタートであって、ゴールではありません。新たないのちへの誕生であって、それですべてが終わったわけではありません。むしろ、日々、肉体の生命と同じく、必要な糧をいただくことで成長させなければなりません。恵みが大きくなるわけではなく、大きな恵みをいただくために器を大きくするのです。ミサでいただく、み言葉と聖体の恵みはもちろんですが、日々体験する様々な出来事、出会い、学び、祈りの中での光、そうしたことによって、恵みをいただく器が大きくされるのです。
第一朗読のイザヤの預言の中で、待降節の間、聞いた言葉がありました。「主なる神、彼は力を帯びて来られ、御腕をもって統治される」と。これは、ずっと昔の話ではありません。現代、そして、今日も、主はわたしたちのもとに来られます。山あり、谷あり、行く手を阻む流れやそびえたつ壁、そうしたものを乗り越えて、主はわたしたちのもとに来られ、共に生きようとしておられます。「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる」とあります。この主に信頼いたしましょう。主は言われます、「恐れるな」と。一人で、自分の力だけで、前に進もうとすれば、挫折するかもしれません。しかし、主が共に歩み、同じ舟に乗り、進んでゆかれます。洗礼の恵みを受けたことを思い起こして感謝し、あらためて、主への信頼を深めて歩んでゆきましょう。(S.T.)