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教皇の意向:使命を担い合う (10月)

待降節第一火曜日(12/5)

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天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。

ルカ10:21b
集会祈願

🌸 第一朗読 (イザヤ11:1-10)

イザヤの預言
〔その日、〕
1エッサイの株からひとつの芽が萌えいで
その根からひとつの若枝が育ち
2その上に主の霊がとどまる。
知恵と識別の霊
思慮と勇気の霊
主を知り、畏れ敬う霊。
3彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。
目に見えるところによって裁きを行わず
耳にするところによって弁護することはない。
4弱い人のために正当な裁きを行い
この地の貧しい人を公平に弁護する。
その口の鞭をもって地を打ち
唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。
5正義をその腰の帯とし
真実をその身に帯びる。
6狼は小羊と共に宿り
豹は子山羊と共に伏す。
子牛は若獅子と共に育ち
小さい子供がそれらを導く。
7牛も熊も共に草をはみ
その子らは共に伏し
獅子も牛もひとしく干し草を食らう。
8乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ
幼子は蝮の巣に手を入れる。
9わたしの聖なる山においては
何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。
水が海を覆っているように
大地は主を知る知識で満たされる。
10その日が来れば
エッサイの根は
すべての民の旗印として立てられ
国々はそれを求めて集う。
そのとどまるところは栄光に輝く。

🌸 答唱詩編 詩編72 典60 ④⑤

アレルヤ唱 典256 ⑨

🌸 福音朗読 (ルカ10:21-24)

ルカによる福音

 21そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。 22すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません。」 23それから、イエスは弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた。「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。 24言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」

奉納祈願

拝領祈願

祈る花:Inoruhana
祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

 福音には珍しい、「天地の主である父よ」という呼びかけを福音記者ルカが残したことに感謝したい。「創造主」、あるいは、「天地の主」という言葉は、旧約聖書の中では、先祖の祈りや詩編、さらには預言者の言葉に繰り返し登場し、イスラエルの神の根本的な特徴と考えられている。 
 しかし、イエスの口から、あえて、「天地の主である父よ」という言葉が発せられたとき、わたしたちが生きるこの大地が、わたしたちのものでなく、創造主である神のものであることを、あらためて意識させられるのではないか。
 しかも、その「天地の主である父」が、「これらのこと」(おそらく神の国の神秘)、を「知恵あるものや賢い者」ではなく、「幼子のようなもの」に表わされたことを、ことのほか、イエスが喜ばれたことに、また、感動させられる。かつて、『申命記』の作者は、イスラエルの選びについて、「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった」(申7.7)と記している。
 神は、その大いなる知恵と愛を示されたのが、数の多さや力の強さ、また、能力の高さ等、人間的な尺度によってではなく、まさに、その逆であることがここに表れてくる。預言者たちは、その鋭い霊感によってそれを悟っていたが、神の子イエスは、自らの言葉だけではなく、ふるまい、存在を通して、それを明らかにされたのである。わたしたちも、自らの小ささを認める時、はじめて大いなる神の知恵と愛に触れる恵みが与えられることを悟らせていただこう。(S.T.)

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御言葉の典礼を読み続く🌸

聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
どうぞよろしくお願い致します。

4 comments

  1. そもそも人間は小さい者。
    真実に生きることが謙遜。
    悪とは虚妄であり善の欠如。
    まともに相手をしてはいけないのだった。

    返信
  2. 主は、惑わされないように気をつけなさい、と言う。
    もう、騙されないように気をつけようと思う。
    it’s a sin to tell a lie
    の日本語訳が
    下手な嘘は罪よ
    となっていた。
    あるカフェで、日本人にモラルはない、と言ったらみんなシンとなった。空気はあっても、モラルはない日本。
    ニセモノ好きの日本人から浮いているのはむしろよいことかも。気づけば私の友人はみな日本的地縁血縁から浮いている。
    2月11日生まれの友人は自己紹介の時「嘘の日に生まれました建です」と言った。
    一九四五を思う日本語族カトリックとしては、もう騙されないぞ、と思う。
    虚妄の上に成り立つ「幸福」を潔しとしない。
    霊操334番を参考に、家族・親戚・故郷・日本の悪霊を看破し、小さくされた者の一人である自分を、まず、大切にしたい。

    返信
  3. 知恵ある者や賢い者に騙されるのがキリスト者の務めかもしれない。
    イスカリオテのユダは元祖現代人、損得勘定で生きている。
    イエス・キリストは、すべてを見て、敢えて騙された。

    我等にはすべてを見ることは許されてないが、洗礼によってイエス・キリストの弟子とされた。
    我等が選んだのではなく、イエス・キリストが我等を選んだ。

    イエス・キリストを見るとは?
    最も小さな者の中に見ることもあれば、マタイ福音書2章10節のように見ることも。

    降誕祭が近い。

    返信
  4. 今日の福音と分かち合いに助けられた。
    事態を何とかしようとする時、この世の力にたよろうとする。これが誘惑スレスレ。イエスは神だから御自分の受難の時には力や神の身分を使わなかった。
    パウロは、人間だから、ローマ市民としての権利を主張した(ただその主張の仕方は相当微妙で慎重だ。ロヨラのイグナチオは個人である時とイエズス会創立後と区別していたように思う)。
    難しい。いろんな論点を考えすぎたか。
    いつもマタイ福音書4章の荒野の誘惑に戻ってしまう。並行箇所、ルカ4章13節は、悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた、とあるが、時とは受難。
    しかし、この世にいる以上、常に誘惑や受難にさらされていると思う。

    数十年前の本などに既に情報過多の時代をどう生きるか、との問題提起がある。
    ただ、いつの時代でも、まず、神と自分との関係をはっきりさせなくては何も始まらない。
    イエス・キリストの御前で祈り、すべてである主イエス・キリストを観て、小さな一歩を踏み出すしかないだろう。
    ワールド・ビジョンにコンタクトしてみよう。

    返信

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