集会祈願
🌸 第一朗読 (列王記上19:16b、19-21)
〔その日、主はエリヤに言われた。〕「アベル・メホラのシャファトの子エリシャにも油を注ぎ、あなたに代わる預言者とせよ。」
19エリヤはそこをたち、十二軛の牛を前に行かせて畑を耕しているシャファトの子エリシャに出会った。エリシャは、その十二番目の牛と共にいた。エリヤはそのそばを通り過ぎるとき、自分の外套を彼に投げかけた。 20エリシャは牛を捨てて、エリヤの後を追い、「わたしの父、わたしの母に別れの接吻をさせてください。それからあなたに従います」と言った。エリヤは答えた。「行って来なさい。わたしがあなたに何をしたというのか」と。
21エリシャはエリヤを残して帰ると、一軛の牛を取って屠り、牛の装具を燃やしてその肉を煮、人々に振る舞って食べさせた。それから彼は立ってエリヤに従い、彼に仕えた。
🌸 答唱詩編 詩編16 典98①②⑤
🌸 第二朗読 (ガラテヤ5:1、13-18)
使徒パウロのガラテヤの教会への手紙
〔皆さん、〕自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。
13兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。 14律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。 15だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。
16わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。 17肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。 18しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。
アレルヤ唱 典269(13C)
🌸 福音朗読 (ルカ9:51-62)
ルカによる福音
51イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。 52そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。 53しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。 54弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。 55イエスは振り向いて二人を戒められた。 56そして、一行は別の村に行った。
57一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。 58イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」 59そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。 60イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」 61また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」 62イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。
奉納祈願
拝領祈願
🌸 分かち合い
梅雨入りしたかと思えば、連日の猛暑。今度は、梅雨明け宣言のタイミングが難しいとか、予想を超える天気の移り変わりに振り回される日々が続きます。先週は、幼稚園の園庭清掃でお父さん方が大変な労働に汗をながしてくださり、木曜日にはプール開きもできました。
教会の典礼も、復活節後の三位一体、聖体の祝日と続き、ようやく年間の季節に入りました。今年は、C年で、福音はルカが読まれます。今日の朗読箇所は、「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」、と緊迫感の溢れる言葉で始まります。ルカによれば、イエスの生涯は、ガリラヤに始まり、エルサレムで終る一つの旅。エルサレムに上ることは、いよいよイエスが生涯の最後に向かって旅立たれることを物語ります。
そうしたエルサレムへの旅の途中、イエスはユダヤ人が避けるサマリアの村を通ろうとして、先に弟子を送られます。イエスを歓迎しようとしないサマリア人を、血気盛んなヤコブとヨハネは、かつて預言者エリヤがやったように、「天から火を降らせて、人々を焼き滅ぼして」てはどうか、と、恐ろしい提案をします。イエスは、すかさず彼らを戒めた、とルカは記します。
ユダヤ人は、サマリア人に対して、かなり高圧的態度を示しますが、ルカは、当時のユダヤ人には考えられないような、サマリア人に対するイエスの寛容な姿勢を、様々な箇所に記しています。重い皮膚病を癒していただい10人の中で、感謝に戻って来たたった一人のサマリア人の話し、有名な善いサマリア人のたとえ。ヨハネは、昼日中にサマリアの女と対話をされるイエスについて記します。イエスの復活後、エルサレムで迫害が起き、弟子たちの多くがサマリアへ逃げ、それが契機となって、サマリア人の中から改宗者が出たことが背景にあるのかもしれません。
その後、イエスは、自分に従って行こうとするもの、イエスの弟子になろうとするものに対して、厳しい言葉を浴びせます。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」。イエスは、まさに、そのようなこの世での安住の場を持つことなく、父から与えられた使命に献身しておられたのです。そして、「父を葬りに行かせてください」とう者に、イエスは言われます、「死んでいる者たちに、自分の死者を葬らせなさい」と。そして、「家族にいとまごいに行かせてください」という者に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われます。第一朗読で読まれたエリシャの話とだいぶ違います。エリヤの後継者となるエリシャに対し、エリヤは母との別れを許しました。しかし、そのエリシャも、実は、エリヤの後を継ぐにあたって、自分にとって貴重な財産である一軛の牛を屠り、その装具を燃やして、肉を煮て人々に振る舞ったとあります。預言者エリヤに従い、仕えるために、それまでの生活と訣別し、生業の一切を放棄したことのしるしではないでしょうか。
イエスが従うもの、弟子になろうとするものに求められることは、生活を根本から転換することです。山上の説教で説かれるように、貧しさを大事にして生きる、人から受ける侮辱に耐える、神を何にも勝る宝と考えるだけでなく、隣人を自分のように愛するなど。そうした、生き方の根本を見直し、イエスが示される道を歩むことです。ある意味で価値観を180°転換させること、パウロが記すように、イエスを知ることの前に、それまで誇りに思って来たことを塵芥のように見なすこと、つまり、絶えざる回心が求められるのです。
ガラテヤの教会に宛てた手紙の中で、パウロは自由について語ります。当時の教会、パウロが始めた教会共同体の中には、ユダヤ教から改宗してキリスト者になったものが少なくなかったようです。パウロが、いくら口を酸っぱくして、イエスの救いが、律法の実行ではなく、イエスを信じる信仰によって得られることを強調しても、彼らの中には、昔から馴染んできた律法にこだわる人がいたようです。パウロは言います、「あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。」「奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」古い律法の業でなく、「隣人を自分のように愛すること」、ひとえに「愛によって互いに仕え」合うこと、古い掟に縛られて生きることではなく、自由をもたらすイエスの霊、復活されたイエスの霊に従って歩むことなにです。
こうした生き方を続け、イエスの弟子として生きるためには、エルサレムに向かって決意を固められたイエスのように、わたしたち一人一人も、自分を縛る多くのものから解放されて、イエスにのみ従う決意を日々新たにしなければなりません。主の日に教会に集まるわたしたち皆が、そうした思いを深くしながら、信仰から来る喜びを人々と分かち合うことができるよう祈りましょう。(S.T.)
ファリサイ派や律法学者のように自分自身の心にある善悪の判断力を放棄し世間の空気や金銭欲に従っている形式的法治国家日本の中にあってイエスの言葉はジメジメした空気を一喝する雷音のように爽快だ。また分かち合いにあるように心の中の不純物を除いて心を研ぎ澄ましてくれる。戦時中正木ひろしは日本人を家畜と言ったが我々は二度と家畜や奴隷の軛につながれてはならない。