集会祈願
🌸 第一朗読 (フィリピ4:10-19)
使徒パウロのフィリピの教会への手紙
10〔皆さん、〕あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表してくれたことを、わたしは主において非常に喜びました。今までは思いはあっても、それを表す機会がなかったのでしょう。 11物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。 12貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。 13わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。 14それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました。
15フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした。 16また、テサロニケにいたときにも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました。 17贈り物を当てにして言うわけではありません。むしろ、あなたがたの益となる豊かな実を望んでいるのです。 18わたしはあらゆるものを受けており、豊かになっています。そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って満ち足りています。それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです。 19わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。
🌸 答唱詩編 詩編112 典99 ①④
アレルヤ唱 典270 25C
🌸 福音朗読 (ルカ16:9-15)
ルカによる福音
9〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。 10ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。 11だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。 12また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。 13どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」
14金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った。 15そこで、イエスは言われた。「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。
奉納祈願
拝領祈願
🌸 分かち合い
ルカは一つのテーマを巡ってイエスの話を集める傾向がある。今日読まれた16章は、言ってみれば「金」にまつわる話しばかり。ただ、多くの資料の中から関係ある資料をまとめているので、必ずしも一貫性があるとは言えない。
「あなたがたは神と富(マモン)とに仕えることはできない」。マタイにも出て来る言葉。神に従おうとすれば、富(擬人化された)を一切捨てなければならないのだろうか。非常に厳しく徹底した態度を要求する言葉で、一切の妥協を赦さないような印象を与える。
しかし、同時に、「不正にまみれた富で友だちを作りなさい」、そして、「不正にまみれた富について忠実でありなさい」とも言われる。人を悪に導く富をも使って友達を作ったり、富に忠実であることを要求したりなさる。そして、富=金を使って生きることが避けられない現実を前提として、「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である」と言われる。
現実社会の中に生きる者にとって、説得力のある教えでないだろう。お金のもつ底知れない力、避けがたい魅力、それは、お金に限らず、すべての造られたものに通じるものであろうが、そうした人間を神から引き離すものであることを意識しながらも、そうした人間の手に委ねられたものを通して、神に仕えること、そこに、人間に託された難しくも挑戦的な課題があるのではないか。(S.T.)
今日、久しぶりにゆっくり話をした人は昔はユニセフに寄付していたが何十年経っても情況がよくならないのはおかしいと最近はしてないと言っていた。
今月の教皇による祈りの意向の子どもたちの映像を見て同じようなことを感じた。1980年代に大問題になった子どもたちの貧困を未だ解決できてないなんて!
日本にいると、どうでもよいことが多すぎて大事なことを見失う。
日本にいること自体が罪のように感じる。
説得力のある教えではないだろう
との分かち合いの大胆な言葉に納得。
まさに植民地帝国主義という偽善の体系に挑まぬ善意がナンセンス
と看破した加藤周一
例えばイリイチもパパラギも言っていること、もう半世紀以上もこんなこと言われ続けている。
最近も例えば11月3日毎日新聞第一面に監視資本主義について書いてある。
この体を持つ人間の生活空間と地球を破壊するシステムを変えなくては!
最近、尊敬している信徒の先輩に、
地球環境保護とか、何でもビジネス化する拝金主義批判とか、何十年も前に結論が出ている当たり前のことを、はっきり言う人がいなくなった、と言ったら
フランシスコ教皇は言っている、と言われた。
しかし、日常の生活空間で己の思うところをはっきり言う人間・それに基づき行動する人間がほとんどいなくなってしまった。
人類みなが、がん首そろえて、フランシスコ教皇や北欧の女子高生グレタちゃんに言わせておくのは老人虐待・児童虐待だろう。(だから、悪い意味で極端・異端な、ゴッホの絵にスプレーかける悪い意味のバカが出現するのだろう)
とにかく喰うことが第一。
喰うことが地球破壊につながらないように新たに地元農家に繋がりに行こうっと。
他方で、小さなことが、小さな命であればまさに福音の通りだ。
すべての命を守るとは魚を食べない、ということではなく、魚を決して無駄にせず命を受けて命の花と実になること。
多くの人々と多くの命により自分は生きている。
地元教会で、主の平和のあいさつの時、だっこさた子が、こんにちは!こんにちは!こんにちは!とみんなに一生懸命あいさつしていたことを思い出す。
私も彼と同じく、主の平和の時は、ありったけのあいさつをする。
他方、ルカ10章4節のような情況もある。
彼と私が、ありったけあいさつするのは母や父にだっこされているからだ。
子ども時代を保障すること
小さな子どもたちにも
神の子どもたちにも
人々に神の子どもとされてることを告げること
2022年11月7日月曜日朝。