集会祈願
🌸 第一朗読 (イザヤ7:10-14)
イザヤの預言
10〔その日、〕主は更にアハズに向かって言われた。 11「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」
12しかし、アハズは言った。
「わたしは求めない。
主を試すようなことはしない。」
13イザヤは言った。
「ダビデの家よ聞け。
あなたたちは人間に
もどかしい思いをさせるだけでは足りず
わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。
14それゆえ、わたしの主が御自ら
あなたたちにしるしを与えられる。
見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み
その名をインマヌエルと呼ぶ。
🌸 答唱詩編 詩編24 典158 ②③
アレルヤ唱 典257(12月20日)
🌸 福音朗読 (ルカ1:26-38)
ルカによる福音
26六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。 27ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。 28天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」 29マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。 30すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。 31あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。 32その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。 33彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」 34マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」 35天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。 36あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。 37神にできないことは何一つない。」 38マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。
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🌸 分かち合い
このお告げの場面を黙想すると、つい、最後のマリアの言葉に思いが集中しがちである。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」それは、素晴らしい態度、キリスト者として生きる最高の模範。しかし、天使のお告げの言葉について考えると、果たして、年若い乙女マリアがどこまで理解したか、疑いたくなる。
あらためて天使の言葉を詳しく見ると、二つのポイントがある。一つは、生まれて来る子が、「ダビデの子」であり、来るべき救い主・メシアであるということ。「神である主は、彼に父ダビデの王座を下さる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」。そこには、単なるダビデの子孫であるだけでなく、王となること、しかも、終わりのない永遠の支配を行う、ということが含まれている。さらに、マリアの問いに答える形で天使は言う、「生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」と。つまり、生まれる子は、ダビデの子であるだけでなく、いと高き方、神の子であるという驚くべき神秘がそこに語られているのだ。こうした、キリスト教信仰の根幹となる神秘(真理)を乙女マリアが、即刻理解できたとは到底思えない。息子イエスと過ごされた日々、そして、公生活におけるイエスの言葉、振舞いから、この奥深い神秘に少しずつ分け入る恵みが与えられたのではないか。「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」(ルカ1.19)とも記されている。
神の言葉を信じ、それを受け止めたマリアは、いつまでも、わたしたちキリスト者の生き方の模範そのものである。(S.T.)
細かいことですが、分かち合いの最後の方にあるルカ1.19はルカ2.19ではないでしょうか。念のため。
そして直前のルカ2章18節では「聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。」とあり
「しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。」(19節)と続く。
羊飼いたちが体験した不思議な導きを聞いて、マリアはきっと確信を深めたことだろう。
羊飼いの話を不思議に思っても、即断も、まして診断もしない人々は素晴らしい。(金銭的に豊かな人々や権力者は、効率や生産性を理由に、自らの不安を隠して、ヘロデのように子どもや霊的人々を即決・処刑するだろう。マタイ2章参照)
昨日の福音(ルカ1.5〜25)でザカリアを待っていた民衆のように、ザカリアが聖所で幻を見たのだと悟る(ルカ1.22)ことができる人々も素晴らしい。
出来事をすべて心に納めて思い巡らしている母マリアに、尋ねたい、頼りたい気持ちもあるが、
天の父なる神の御前で世界の行く末を議論すべきだろう。ルカ2章41節以下参照。
細かいことですが、分かち合いの最後の方にあるルカ1.19はルカ2.19だと思う。
そして直前のルカ2章18節では「聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。」とあり
「しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。」(19節)と続く。
羊飼いたちが体験した不思議な導きを聞いて、マリアはきっと確信を深めたことだろう。
羊飼いの話を不思議に思っても、即断も、まして診断もしない人々は素晴らしい。(金銭的に豊かな人々や権力者は、効率や生産性を理由に、自らの不安を隠して、ヘロデのように即決・処刑するだろう。マタイ2章参照)
昨日の福音(ルカ1.5〜25)でザカリアを待っていた民衆のように、ザカリアが聖所で幻を見たのだと悟る(ルカ1.22)ことができる人々も素晴らしい。
出来事をすべて心に納めて思い巡らしている母マリアに、尋ねたい、頼りたい気持ちもあるが、
天の父なる神の御前で世界の行く末を議論すべきだろう。ルカ2章41節以下参照。