集会祈願
🌸 第一朗読 (イザヤ9.1-3、5-6)
1闇の中を歩む民は、大いなる光を見
死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。
2あなたは深い喜びと
大きな楽しみをお与えになり
人々は御前に喜び祝った。
刈り入れの時を祝うように
戦利品を分け合って楽しむように。
3彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を
あなたはミディアンの日のように
折ってくださった。
5ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。
ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。
権威が彼の肩にある。
その名は、「驚くべき指導者、力ある神
永遠の父、平和の君」と唱えられる。
6ダビデの王座とその王国に権威は増し
平和は絶えることがない。
王国は正義と恵みの業によって
今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。
万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。
🌸 答唱詩編 詩編96 典148 ①④⑤
🌸 第二朗読 (テトス2.11-14)
11〔愛する者よ、〕すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。 12その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、 13また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。 14キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。
アレルヤ唱 典258(主の降誕夜半)
🌸 福音朗読 (ルカ2.1-14)
ルカによる福音
1そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。 2これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。 3人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。 4ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。 5身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。 6ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、 7初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
8その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。 9すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。 10天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。 11今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。 12あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」 13すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
14「いと高きところには栄光、神にあれ、
地には平和、御心に適う人にあれ。」
奉納祈願
拝領祈願
🌸 分かち合い
今日、教会と全世界の善意の人々は、クリスマスの喜びを分かち合います。喜びをともにしたいと望みながら、様々な理由で教会に来られない方が多数おられることを承知しながら、共にミサに与り、主を賛美することができることを、まずは感謝したいと思います。
お店を経営しておられる方にとって、クリスマスは事業継続のための大事な機会ですし、国や企業の経済的発展に腐心する人々にとって、クリスマスは景気浮揚のためのまたとない機会であるかもしれません。そうした人々の中で、わたしたち教会に集うものにとって、クリスマスはどのような意味をもつのでしょうか。
クリスマスに子どもたちが最も期待することは、プレゼントをもらうことです。子どもだけでないかもしれません。クリスマスは、何か素敵なものを、自分の努力の結果ではなく、ただで、無償でいただける数少ない機会です。それは、クリスマスが、本来、人類に対する神の無償な賜物に由来するからです。だれも、期待し、予想し、要請することのできない、神の限りないいつくしみ、ご自分の最も尊い独り子を、人間の世界に、一人のいたいけな幼児としてお遣わしになったという神秘がそこにあるのです。
しかし、人間がそこに一切関与しなかったわけではありません。むしろ、人間の、ささやかな、しかし、決定的な同意があって、はじめて実現した神の救いの計画なのです。ナザレの名もない少女マリアが、神の思いもよらないはかりごとに承諾の意志を示したことによって、神の壮大な計画が現実のものとなったのです。
そして、その壮大な計画は、人間の思いとは異なり、様々な不都合と、障碍の中で、ひそかに進行したことを、福音史家ルカは、淡々と記します。「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録せよとの勅令が出た。」人口調査はいつの世も、時の為政者が、自らの権力を誇示し、確認するために行うものです。貧しい庶民は逆らうすべもなく、万難を排して、自分の故郷に登録に出かけねばなりません。神の子を宿した母マリアは、そうした状況の中で、ベトレヘムへの不安な旅に出向かれるのです。
しかし、行き着いたダビデの町ベトレヘムは、都エルサレムに近く、同じく登録に来た人々で宿屋はどこもいっぱい、仕方なく、町はずれの洞窟で、動物たちのにおいのこもった馬屋での出産となります。ルカは記します、「マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた」と。飼い葉桶の中に眠る乳飲み子、それが、生まれたばかりの神の子のしるしです。神自ら、繰り返し、教え導き、救いの約束を受けたイスラエルの民は、救い主の誕生を喜び迎える状況ではなかったのです。
福音の後半が伝える話は、人々が寝静まった夜、羊の番をする貧しい羊飼いへの天使の告げです。突然の光におびえる羊飼いに天使は言います、「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」と。喜びの便りを受けるには最も縁遠いと思われる、貧しい羊飼いに、救い主の誕生を告げる喜びが伝えられるのです。社会の中で、いつも無視され、後回しにされ、その働きだけが当然のように思われる貧しい人々を、神は選び、喜びの使者となさいます。コロナ禍で、すべてが滞ったときも、何事もなかったかのように働き続けた多くの人々に、フランシスコ教皇が光をあてられたように、わたしたちも、羊飼いへの福音の告げの意味をあらためて考えなければなりません。
喜びは、喜ぶ理由のある人にだけ与えられるものではありません。むしろ、喜べる状況にない人々、自分には喜びも希望もない、これからどのように生きて行けばよいかわからない、そんな暗闇に捨て置かれたような状態にある人にこそ、神が約束される真の喜びが与えられること、心に刻みましょう。
今日、この後、一人の方の洗礼式があります。夏前から勉強を始め、日曜日ごとに教会に通い、ミサに与って来られた松原さんです。豊かな人生を積まれながら、この春ご主人を亡くされ、あらためてご自分の歩みを振り返り、ご家族の方々が大事にしてこられた教会生活に目を向けられたのです。今、神様の不思議な導きにより、新しい歩みを始めようとしておられる松原さんのためにお祈りいたしましょう。(S.T.)