「口で唱える祈り」の大切さを説く、教皇、一般謁見で
教皇フランシスコは、4月21日(水)、一般謁見をバチカン宮殿から中継で行われた。
教皇フランシスコは、4月21日、水曜日の一般謁見をバチカン宮殿から中継で行われた。
謁見中、教皇は「キリスト教的祈り」をめぐるカテケーシスとして、「口に出して唱える祈り」について考察された。
「祈りは神との対話である。すべての被造物は神と対話している」と述べた教皇は、人間の中でその対話は、祈りの言葉や、歌、詩となっていく、と話された。
祈りの言葉は、詩編(参照 23)が教えるように、「死の影の谷を行くときも」わたしたちを「青草の原」や「憩いの水のほとり」に導き、敵を前にしても、わたしたちを「食卓」に与らせる、と教皇は語った。
聖書は、心に隠された苦しみをはじめ、あらゆる人間の営みをも切り捨てることなく、すべてを言葉の光のもとにもたらすよう人を育んだ、と教皇は述べ、それゆえに聖書は、時には大胆な言葉で祈ることをわたしたちに、教えていると話した。
聖書記者たちは、人の心にはあまり建設的でない感情、たとえば憎しみなども巣食っていることをよく知っており、人間について幻想を抱かせることはない、と教皇は述べた。
誰も最初から聖人に生まれるわけではない、と教皇は話しつつ、こうしたネガティブな感情が心の扉を叩く時、わたしたちは祈りと神の御言葉をもって、それを心から取り去る必要がある、と語られた。
また、詩編には、敵に対する強い表現 ―霊的な師たちは、それを悪魔やわたしたちの罪に対するものとして教えている― が見られるが、こうした言葉も人間の現実に属するものとして、聖書に書き残されることになった、と教皇は説明された。
教皇は、人間の祈りの原型は、常に言葉となって自然に口にのぼるもの、と指摘。祈るとはただ言葉を繰り返すことではないとわたしたちは知っているが、しかしながら、声を出し唱える祈りは最も確かで、常に可能な祈り方である、と話された。
そして、教皇は、「口祷は、キリスト教的生活には欠くことのできないものである。イエスの沈黙の祈りに引きつけられた弟子たちに、イエスは『主の祈り』という一つの口祷を教えられた」(教会のカテキズムn.2701)と、口祷の重要さを示された。
教皇は、教会でしばしば低い声で祈りを唱えているお年寄りたちの、その謙遜さに学ばなければならないと述べ、こうした謙遜な祈りが、小教区のための大きな取りつぎの祈りとなり、年々育って多くの人を覆う樫の木のようになっていく、と語られた。
また、教皇は、あるロシア人巡礼者の手記として知られる霊的な書に触れ、この中で絶え間なく唱えられる「イエス、キリスト、神の御子、主よ、罪びとであるわたしたちをあわれんでください」という祈りに、キリスト教的祈りの精神を見つめられた。
口に出す祈りの言葉は、わたしたちの手を取り、確実に神へと導く、と述べた教皇は、口祷の価値を再発見し、それを大切にするように勧められた。
源:バチカンニュース