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教皇の意向:子を失った親 (11月)

年間第十一主日A年(6/18)

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天の国は近づいた。

マタイ10:7
集会祈願

🌸 第一朗読 (出エジプト19:2-6a)

出エジプト記
2〔その日、イスラエルの人々は〕シナイの荒れ野に着き、荒れ野に天幕を張った。イスラエルは、そこで、山に向かって宿営した。
3モーセが神のもとに登って行くと、山から主は彼に語りかけて言われた。
「ヤコブの家にこのように語り
イスラエルの人々に告げなさい。
4あなたたちは見た
わたしがエジプト人にしたこと
また、あなたたちを鷲の翼に乗せて
わたしのもとに連れて来たことを。
5今、もしわたしの声に聞き従い
わたしの契約を守るならば
あなたたちはすべての民の間にあって
わたしの宝となる。
世界はすべてわたしのものである。
6あなたたちは、わたしにとって
祭司の王国、聖なる国民となる。
これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。」

🌸 答唱詩編 詩編100 典172 ①②④

🌸 第二朗読 (ローマ5:6-11)

使徒パウロのローマの教会への手紙
 6〔皆さん、〕実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。 7正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。 8しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。 9それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。 10敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。 11それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。

アレルヤ唱 典

🌸 福音朗読 (マタイ9:36~10:8)

マタイによる福音
  36〔そのとき、イエスは〕群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。 37そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。 38だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」
 10-1イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。 2十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、 3フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、 4熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。
 5イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。 6むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。 7行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。 8病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。

奉納祈願

拝領祈願

祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

 今日のみ言葉は派遣というテーマを巡っています。毎度捧げるミサの最後には「派遣の祝福」があり、その後、司祭は、「感謝の祭儀を終わります。行きましょう。主の平和のうちに」と唱えて、ミサは終わります。しかし、実際、それでわたしたちの務めが終わるのではなく、むしろ、それから始まる、と言うべきでしょう。そのため、司祭は、「行きましょう、主の福音を告げるために」、あるいは、「平和のうちに行きましょう。日々の生活の中で主の栄光をあらわすために」と唱えることもできます。ということは、ミサで恵みをいただいて、神を知らない人々の真只中で、使徒たちのように、主の愛を証しし、和解の恵みをもたらすという使命を生きるよう、招かれているということです。
 今日の福音はまさに、そのようなわたしたちの使命の原点とも言うべき、使徒たちの選びと派遣が内容です。使徒たちの選びと派遣に先立って、こう記されています、主イエスは、「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」と。果たして、このイエスがご覧になった群衆の姿は、わたしたちの生きている社会の人々とまるで違うと言い切れるでしょうか。むしろ、弱さや醜さ、疲弊して、不満を抱え込み、いつ爆発してもおかしくないような現代の状況を的確に言い当てていると言えないでしょうか。
 そのような群衆のために働く仲間をイエスは求め、弟子たちの中から12人を選ばれました。その顔触れは、ご存じのとおり、エリート集団とほど遠い、ごく平凡な、人間的な弱さに満ち、理解の鈍い、血気にはやる男たちでした。
 彼らの多くは、ガリラヤの漁師、あるいは、ガリラヤ周辺出身の素朴な人々です。後に使徒とされたパウロのような、エルサレムで専門の教育を受けた人々とはまるで違うタイプの人間です。時には、言い争ったり、順位を競ったりすることもあったでしょう。師を裏切ったり、否んだり、誤解したり、そのため、何度も師から叱責を受けるような、愛すべき人物です。しかし、イエスの復活後、聖霊の注ぎを受けて、託された使命のために、師と同じように、宣教に専念し、迫害を受け、最後は殉教の死を遂げた人々です。
 彼らが選ばれたのは、持って生まれた優れた資質や努力の結果ではなく、あくまで神の計画の実現のためのはからいでした。その計画は、昔から、イスラエルを選び、特別な愛を示し、厳しい砂漠の道をもって鍛えられた神の計画を受け継ぐものでした。イエスは言われます、「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの失われた羊のところへ行きなさい」と。あくまで、神の救いの計画の中で、与えられた使命を果たすことが求められるのです。
 そして、イエスは言われます、「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い出しなさい」と。それは、いわば、社会から見捨てられたような人々に寄り添い、彼らにも及ぶ神の愛を告げ、彼らに生きる力を与えることでした。それは、第二朗読の『ローマの教会への手紙』で聖パウロが記したように、「わたしたちのために死んでくださったキリスト」において現れた、すべての人、特に、弱く小さくされた人々に対して示された神の愛を告げ知らせることです。そして、「御子の死によってもたらされた神との和解」を現実のものとすることです。
 使徒たちが受け、教会が継承した使命を実現するために、わたしたちは、皆、司祭や修道者になる必要はありません。自分が生きる場で、家庭で、社会で、教会で、自分に託された、それぞれの使命を果たしながら、主イエスの愛を自らの存在、生き方、そして、最後に、可能な時に、言葉をもって告げ知らせることです。ミサが終わって家路につくとき、一つの務めを終えたという充足感ではなく、今からこそ、派遣に応えて生きる、という決意を固めましょう。「行きましょう、日々の生活の中で、主の栄光をあらわすために」。(S.T.)

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御言葉の典礼を読み続く🌸

聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
どうぞよろしくお願い致します。

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