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教皇の意向:子を失った親 (11月)

年間第二十一主日C(8/21)

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狭い戸口から入るように努めなさい

ルカ13:24
集会祈願

🌸 第一朗読 (イザヤ66:18-21)

イザヤの預言

 〔主は言われる。〕18わたしは彼らの業と彼らの謀のゆえに、すべての国、すべての言葉の民を集めるために臨む。彼らは来て、わたしの栄光を見る。 19わたしは、彼らの間に一つのしるしをおき、彼らの中から生き残った者を諸国に遣わす。すなわち、タルシシュに、弓を巧みに引くプルとルドに、トバルとヤワンに、更にわたしの名声を聞いたことも、わたしの栄光を見たこともない、遠い島々に遣わす。彼らはわたしの栄光を国々に伝える。 20彼らはあなたたちのすべての兄弟を主への献げ物として、馬、車、駕籠、らば、らくだに載せ、あらゆる国民の間からわたしの聖なる山エルサレムに連れて来る、と主は言われる。それは、イスラエルの子らが献げ物を清い器に入れて、主の神殿にもたらすのと同じである、と主は言われる。 21わたしは彼らのうちからも祭司とレビ人を立てる、と主は言われる。

🌸 答唱詩編 詩編117 典132①②

🌸 第二朗読 (ヘブライ12:5-7、11-13)

ヘブライ人への手紙

 〔皆さん、あなたがたは、〕子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。
 「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。
 主から懲らしめられても、
 力を落としてはいけない。
 6なぜなら、主は愛する者を鍛え、
 子として受け入れる者を皆、
 鞭打たれるからである。」
 7あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。 8もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。 9更にまた、わたしたちには、鍛えてくれる肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるのが当然ではないでしょうか。 10肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。 11およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。
 12だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。 13また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。

アレルヤ唱 典269(21C)

🌸 福音朗読 (ルカ13:22-30)

ルカによる福音

 〔そのとき、〕22イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。 23すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。 24「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。 25家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。 26そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。 27しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。 28あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。 29そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。 30そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」

奉納祈願

拝領祈願

祈る花:Inoruhana
祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

 お盆が過ぎ、帰省の波も収まり、猛暑の中でも、静かな日常が戻って来たと感じる人もいるが、逆に、置き土産ともいうべき、コロナ感染の急拡大に、不安な日々を送る方も少なくない今日この頃。

 教会を訪れるのに、二の足を踏む方もあるでしょうが、今日のみ言葉は、そんなわたしたちに、一歩踏み出す力を与えてくれるのでは。福音書の中で、ある人がイエスに尋ねた、「救われる者は少ないのでしょうか」と。今の時代、そんな質問をする人は、滅多にいない、と感じるかもしれない。イエスの時代でも、そうだったかもしれない。「救い」ということについて考える人は、やはり、まじめな人、何かを求めている人、同時に、どこかに不安を感じている人でしょう。救われる人が多いか、少ないか、という問いの裏には、自分は救われるのか、というより根源的な問いが、隠れているのでは。最近、急に注目されだした宗教に、あれほど深入りして、大きな被害を被った人が少なくないのも、そうしたことが影響しているのでは。

 自分は果たして救われるか、こんな人生を歩んできて、もし死んだら地獄行きではないか、と思う人が意外に多いかもしれない。それは、今始まったことでもないし、特定の文化、宗教に限った話でもない。人間だれでもが、本能的に抱いている不安、恐れ、心配、と言ってよいかもしれない。あの、神様について徹底的に教えられたイスラエルの人々、宗教的な民族と思われるイスラエルの人々も、あの細かい律法、掟、定めを落ち度なく守ることが、神のみ旨だとするなら、だれもが、自信をもって、自分は救われる、と言えなかったかもしれない。まして、イエスという先生から、新しい教えを聞いた人々は、一層自分は救われるか、そんな教えに従って生きられるか、と不安を感じたとしても不思議ではない。

 そんな根源的な不安を抱えてイエスに質問した人に、イエスは言われる、「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ」と。それを聞いた人は何を感じただろうか。「冗談じゃない、まだ、厳しいことを言うのか、もっとハードルを高くするのか」と思ったかもしれない。これと似た考えを記すマタイの山上の説教では、こう言われる、「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に至る門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす人は少ない」(マタイ7.13,14)と。人々が入ろうとする門は、だれの目にも留まる、立派な、魅力的な門。しかし、いのちに至る門(戸口)は、人目につかない、小さな、そこに門があるとさえ思わない、貧相な門。目に留まっても、多くの人は見過ごしたり、避けたりして、入ろうとしない。イエスが勧める門(戸口)とは、そのようなものではないか。誰にでも開かれているが、あえて入ろうとする人が少ない、そんな門なのかもしれない。

 今日の第一朗読にはイザヤの預言が選ばれている。それも、「第三イザヤ」と言われる、預言書の最後の部分。国の滅亡とバビロンへの捕囚という、悲惨な体験をした後の紀元前6世紀ごろにまとめられたとされる。そこには、聞きなれない地方、国の名前(タルシシュ、ブル、ルド、トバル、ヤワン)があげられている。これらの地名は、イスラエルでなく、小アジア、ギリシャ、北アフリカ等、地中海世界の国々、『創世記』のはじめ、ノアの子孫の地として挙げられた地域のことである。国を失ったイスラエルの人々が移住した地域でもある。そうした名前があげられるのは、それらの「わたしの名声を聞いたことも、わたしの栄光を見たこともない、遠い島々」から、人々が捧げものをもって聖なる山エルサレムに昇ってくるからである。神に選ばれ、神について教えられ、神の民とされたイスラエルに属していない人々の中から、神を礼拝する人々がやってくる。ユダヤ人からすれば、まさに異邦人である人々が、神の民に加えられることの預言である。第三イザヤには、そのような考えがあちこちに記されている。実は、今日の福音の最後を読むと、奇しくも、それと重なる言葉が記されている。「人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く」とイエスは言われる。まさに、イエスが考えておられる「救い」が、それほど多くの人に開かれたものであること、神の懐の大きさ、広さ、深さがどれほどのものであるかを感じさせる言葉ではないか。

 そのような世界に開かれた救いを得るために必要なこと、それはただ一つ、救いが神から来る、神の無償の賜物、恵みであることを受け入れること、しかも、主イエスが自らの尊い生涯、その受難と十字架の死を通して人類にもたらされたと信じること、そして、自らの小ささ、無力さを認め、へりくだって、謙遜な心で、大いなる神の前にすべてを委ねること、これではないか。今なお、救いを求め、悩み続ける人に、そのような理解、主イエスがもたらす福音を受け入れる恵みが与えられるよう共に祈ろう。(S.T.)

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御言葉の典礼を読み続く🌸

聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
どうぞよろしくお願い致します。

6 comments

  1. 自転しながら公転しているって地球。ナザレの人でもあったけど地球人でもあったイエス。遠藤周作ならきっと「大変だあ」と言うだろう。
    E.フロムは『愛するということ』の中で確か椅子に座って瞑想している人が一番活動的と言っていた。小さなテレジアはベッドで横になって祈っているうちに眠る、ということを友人に聞いて、ぼくはうれしかった。アモロス師の霊操の冒頭で、自分が一番楽な姿勢で祈りなさい、と言われ、ここだけの話だが長い霊操中ぼくは、喰う寝る遊ぶを実践していた。キリストの血に酔う男酒いらず?酒はうまいしねえちゃんはきれいだ。あれ?これって偽の天国?

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  2. 僕はせわしない。表面的にはのんびりしているように見えるらしいが、頭の中は忙しく焦っているらしい。

    返信
  3. 「誰にでも開かれているが、あえて入ろうとする人は少ない」狭き門とは、主イエスの受難と十字架の死?!
    きっとそうだ。
    私はいつもマタイで言えば4章の荒れ野の誘惑に戻されてしまう。せっかちなかたつむり。弱いくせに殻から出て走ってしまう。美しい言葉をこの世ですぐに実現したくなってしまう。時に、様々な美と美そのものを混同しながら。

    荒れ野で悪魔が聖書を引用してもイエス様はそれに乗ったりしない。私は聖書の一節に酔い下手するとそれと心中してしまうか、はたまたファリサイ派や原理主義者になるか、そのような危険は常にある。
    教皇フランシスコの「勇気と寛大な心で出かけて行きなさい」という言葉に、
    私は、勇気をもって出かけて行けば道に迷い、寛大な心につけ込まれる!と異議申し立てしたくなっていたが、決定的なことを忘れていた。
    自分の十字架を背負って主イエスに従い、出かけて行くこと。

    主イエスの受難と十字架上の死を忘れた「復活」も「救い」も偽物だろう。

    世界内で人類が存続するために修道者、奉献生活者が不可欠なのがわかる気がする。
    ひとつには、聖書のみの危険性。
    そして現実に、修道者に会う時、自分の中の率直さや良い意味の若さが目覚めること、、本当に大切なものだけで生きる単純さ、、。
    やはりうまく言葉にできないが、
    私も十字架上の主イエスを見つめて生きていきたい。

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