集会祈願
🌸 第一朗読 (ヘブライ10:32-39)
ヘブライ人への手紙
32あなたがたは、光に照らされた後、苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころのことを、思い出してください。 33あざけられ、苦しめられて、見せ物にされたこともあり、このような目に遭った人たちの仲間となったこともありました。 34実際、捕らえられた人たちと苦しみを共にしたし、また、自分がもっとすばらしい、いつまでも残るものを持っていると知っているので、財産を奪われても、喜んで耐え忍んだのです。 35だから、自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。 36神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。
37「もう少しすると、来るべき方がおいでになる。
遅れられることはない。
38わたしの正しい者は信仰によって生きる。
もしひるむようなことがあれば、
その者はわたしの心に適わない。」
39しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です。
🌸 答唱詩編 詩編37 典166 ①②
アレルヤ唱 典269(17A)
🌸 福音朗読 (マルコ4:26-34)
マルコによる福音
26また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、 27夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。 28土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。 29実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」
30更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。 31それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、 32蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」
33イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。 34たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。
奉納祈願
拝領祈願
🌸 分かち合い
マルコは、他の福音書のように、イエスの言葉を長く記すことはしない。イエスが折々に語られた言葉をまとめたマタイの「山上の説教」の大局と言えるかもしれない。一つの例外ともいえるのが、「種を蒔く人のたとえ」である。その結びとなる今日の箇所で、マルコは「ひとりでに実を結ぶ種」と「からし種」のたとえを記している。
自分が努力して働いた結果ではなく、むしろ、「夜昼、寝起きしているうちに」、「ひとりでに」(automatê)実を結ばせる種、それが神の国である。「からし種」のたとえも、同様に、最も小さく、見過ごしてしまいそうな、そんな種が大きく育ち、鳥が来て巣をつくるまでになる。神の国」はそのようなものだ、とイエスは言われる。それは、自然界では当たり前のように起きることだが、人間が知らず知らずのうちに、身に着けてしまっている思考パタンに逆らうかのような現実である。
イエスが「たとえ」を用いて話すのは、ただ、物事をわかりやすくするためではなく、神の国が、そのような人間の常識的な理解、理屈を超えた世界だからである。それに心を開いて、受け入れる心があるものに、はじめて姿を現す現実だからである。イエスが行われた様々な不思議、病人のいやしは、「しるし」と言われる。癒しそのものが目的ではなく、それを通して、神がそこに生きて働いておられる、そのことの「しるし」として、いやしの業が行われた。そこに、神の働きを見ようとしないものにとって、それは、いつまでも、謎のままである。
「聞く耳のある者」となれるよう祈ろう(S.T.)
正しい者は信仰によって生きる。
第一朗読のこの言葉は人々に頼らず神のみに頼ること以外、真の救いはないと教えてくれる。
むしろ十字架にとどまることが今必然。ここまで悪がはびこっているから。
十字架上の死まで行ければ、あとは
♫It’s automatic♫
エルサレムの滅亡も地球の滅亡も近い。
後世に記録を残すよりも、地球を残すことを!
つい読売編集手帳が引用する科学雑誌の地球滅亡まであと90秒に引っ張られた。
とにかく十字架に貼り付けにされていることを自覚していればよい。パウロも言っている、私も世も十字架に貼り付けにされていると。
個人情報保護なんて幻想。脱税王と隠蔽役所の言い訳。
神はすべてを見て聞いておられる。
天網恢恢疎にして漏らさず。
あとは神が決めること。
国破れて山河あり
山河破れて御言葉あり!
今日は(もう明日?になってしまったが)ネメシェギ神父さまの誕生日、ということはモーツァルトの誕生日。
二人とも自然に素晴らしい方だった。
恵みは自然において完成されると聞いたことがある。ただし、人間である以上、受難なし十字架なしなんてありえないが。
四ツ谷の教会の主聖堂のキリスト像について十字架なしではなく、しかし十字架にとどまらないで、と聞いた。
祈りって、どこでもいつでも、人知れず何をしていても、してよいことなんだなあ、と思う。