集会祈願
🌸 第一朗読 (エフェソ6:10-20)
使徒パウロのエフェソの教会への手紙
10〔皆さん、〕最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。 11悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。 12わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。 13だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。 14立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、 15平和の福音を告げる準備を履物としなさい。 16なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。 17また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。 18どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。 19また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。 20わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。
🌸 答唱詩編 詩編66 典45 ⑧⑨
アレルヤ唱 典271 ⑭
🌸 福音朗読 (ルカ13:31-35)
ルカによる福音
31ちょうどそのとき、ファリサイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに言った。「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています。」 32イエスは言われた。「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい。 33だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。 34エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。 35見よ、お前たちの家は見捨てられる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決してわたしを見ることがない。」
奉納祈願
拝領祈願
🌸 分かち合い
ルカはイエスの活動を、「ガリラヤからエルサレムへの旅」という枠組みで捉えている。旧約聖書では、エルサレムは神が選ばれた町、聖なる都、神が自らの名を置かれたところとして、イスラエルの人々にとって特別な場所、民族の誇りであるが、イエスは、そのエルサレムで、最後を迎え、十字架の死を遂げられた。
イエスの死後、紀元70年、イエスの弟子たちによって教会が誕生して間もない時期、エルサレムは、ローマ軍によって、その聳えたつ神殿と共に滅ぼされ、その破壊の傷跡は今日に至るまで残されている。
イエスの十字架上の死とエルサレムの滅亡とは、イエスをメシアとして受け入れなかった神の民への罰ととらえられがちだが、はたしてそれでよいのだろうか。キリスト教の福音は、あの十字架上で亡くなったイエスが復活し、生きておられるというメッセージであり、その福音が、かつて、イエスを受け入れなかったエルサレムから発出されたというのが、ルカの主張である。たしかに、今日の福音にあるように、イエスはエルサレムが神の招きを再三受け入れなかったことを嘆かれた。しかし、同時に、ルカは神が回心を忍耐強く待ち望む方であることを強調する。エルサレムが神に見捨てられたのではなく、福音が全世界に告げられるための壮大な計画の一部であると考えるべきではないだろうか。
自らファリサイ派の一員からキリストの使徒となったパウロは『ローマの教会への手紙』(9章~11章)の中で、神に選ばれた民、イスラエルが、再び神のもとに立ち帰る日が来ることを確信して記している。「一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われるということです」(ローマ11.25)と。とキリスト者にとって、エルサレムは決して過去の遺物ではなく、今なお進展する神の大きな救いの計画の中に位置づけられていることを思い起こそう。(S.T.)
第1朗読の
わたしたちの戦いは血肉を相手にするものではなく
ということを私は肝に銘じたい。
力に満たされる時、つい悪を行う人々と戦ってしまう。
まず謙遜に神に感謝し、沈黙を守る恵みを祈り求めたい。
今、夜10時50分、今日の福音を見た。決定的箇所。
久しぶりに自作みそ汁を喰う。
まず冒頭は昔の伊那教会主任司祭ゼンドギス神父o.f.mを想起。
勿論、パウロにとってのキリストと同じく肉において見たわけではない。
中国共産党革命の前晩、人民解放軍の信徒が師の所に来て、
明日になれば殺されてしまいます。今すぐここから逃げてください、と。
ゼンドギス師は祈りの本だけを持って日本へ。五十を過ぎて日本語を実践の中で学び伊那谷で司牧。今もローマ字で書かれた信徒名簿と説教メモが残っている。
師はコーヒーとワインと煙草が大好き。
教会に当時併設されていた保育園の園長。
ある春の入園式、毎年のように新入生の頭をひとり一人なでていて最後の新入生の頭をなでた瞬間、バタンと倒れ救急車で病院に運ばれ帰天。
素晴らしい人生。美しい人。