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教皇の意向:子を失った親 (11月)

イエスのみ心(6/16)

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集会祈願

🌸 第一朗読 (申命記7:6-11)

 〔モーセは民に言った。」あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。 7主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。 8ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。
 9あなたは知らねばならない。あなたの神、主が神であり、信頼すべき神であることを。この方は、御自分を愛し、その戒めを守る者には千代にわたって契約を守り、慈しみを注がれるが、 10御自分を否む者にはめいめいに報いて滅ぼされる。主は、御自分を否む者には、ためらうことなくめいめいに報いられる。 11あなたは、今日わたしが、「行え」と命じた戒めと掟と法を守らねばならない。

🌸 答唱詩編 詩編103 典93①②③

🌸 第二朗読 (1ヨハネ4:7-16)

使徒ヨハネの手紙

 愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。 8愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。 9神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。 10わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。 11愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。 12いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。
 13神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。 14わたしたちはまた、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています。 15イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。 16わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。
 神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。

アレルヤ唱 典266(イエスのみ心)

🌸 福音朗読 (マタイ11:25-30)

マタイによる福音

 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。 26そうです、父よ、これは御心に適うことでした。 27すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。 28疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 29わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 30わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

奉納祈願

拝領祈願

祈る花:Inoruhana
祈る花:Inoruhana

🌸 分かち合い

 近年のイエスのみ心に対する信心は16世紀のフランスの修道女聖マルガリタ・マリア・アラコクの受けた示現によるとされる。しかし、古くは中世の聖ベルナルド、ボナヴェントウーラにさかのぼり、当然のことながら、聖書に基づくものであり、その起源は、イエスの生涯に表された、人類に対する神の限りない愛にあることは言うまでもない。
 神の愛と言えば、旧約聖書―たとえば、今日読まれた「申命記」に表れるような、選ばれた民、イスラエルに対して示された愛―にすでに表れている。そこでは、イスラエルは、小さく貧弱な民であったが、ひとえに主の愛によって選ばれた「宝の民」であると記されている。
 新約であらわにされた神の愛は、人々への愛ゆえに人としてこの世に送られたイエスが、ご自身のすべてを人々のために捧げ、人間として最もみじめで、小さなものとして十字架上で亡くなり、ご自分の体を人々が生きるための食べ物とし、血を飲み物として教会に残されたことにあると言ってよいだろう。「友のために命を捧げること、これ以上の愛はない」と言われたが、自らそれを生きられたのだ。だからこそ、今日のマタイ福音の中で、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と言われたのは、自ら、そうした現実を「柔和で謙遜なもの」として甘受されたからだろう。
 旧約の預言者イザヤは言う、「主は疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる。若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」(イザヤ40.29~31)と。イエスはそのような神の力、若さ、命を、ご自分の生涯と死を通して、わたしたちに残してくださったのだ。
イエスのみ心の祝日に、この神の大きな愛の神秘を心に刻み、それに生かされ、力を得、希望をもって歩み続けることができるよう祈ろう。(S.T.)

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御言葉の典礼を読み続く🌸

聖書の本文は日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」を使用しております。
どうぞよろしくお願い致します。

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