王であるキリスト 祭日(11/23)

祈る花:Inoruhana

すべてのものは御子によって支えられています サムエル記 1〔その日、〕イスラエルの全部族はヘブロンのダビデのもとに来てこう言った。「御覧ください。わたしたちはあなたの骨肉です。 2これまで、サウルがわたしたちの王であったときにも、イスラエルの進退の指揮をとっておられたのはあなたでした。主はあなたに仰せになりました。『わが民イスラエルを牧するのはあなただ。あなたがイスラエルの指導者となる』と。」 3イスラエルの長老たちは全員、ヘブロンの王のもとに来た。ダビデ王はヘブロンで主の御前に彼らと契約を結んだ。長老たちはダビデに油を注ぎ、イスラエルの王とした。 わたしたちは神の民、そのまきばの群れ。 「神の家に行こう」と言われて、わたしの心は喜びにはずんだ。エルサレムよ、わたしたちは今、おまえの門のうちに立っている。 しげく連なる町、エルサレム、すべての民の都。そこにはイスラエルの部族、神の民がのぼって来る。 イスラエルのおきてに従い、神に感謝をささげるために。そこにはさばきの座、ダビドの家の座がすえられている。 使徒パウロのコロサイの教会への手紙  12〔皆さん、わたしたちは、〕光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなたがたがあずかれるようにしてくださった御父に感謝するように。 13御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。 14わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。 15御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。 16天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。 17御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。 18また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。 19神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、 20その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。 アレルヤ唱 典266 王であるキリスト アレルヤ、アレルヤ。主の名によって来られるかたに賛美。わたしたちの父、ダビドの国に祝福がありますように。アレルヤ、アレルヤ。 ルカによる福音 35〔そのとき、議員たちはイエスを〕あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」 36兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、 37言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」 38イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。 39十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」 40すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。 41我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」 42そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。 43するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。  今日は、年間の最後の主日、王であるキリストの祭日です。この1年の間にいただいた様々な恵みに感謝するとともに、来週から始まる新しい典礼年に向けて、わたしたちが主と仰ぐ王であるキリストは、どのような方であるか、どのような王に従ってゆこうとしているかを、一人一人自分なりに考えてみるときだと言えます。 第一の朗読(サムエル記下)では、ダビデがヘブロンでイスラエルの王になったことが読まれました。ダビデは、ヘブロンで7年、エルサレムで33年、イスラエルを治めたと聖書は記しています。ダビデは、イスラエルを強い国に発展させながら、神への忠実を守り、理想の王として、尊敬されていますが、彼の後を継いだソロモン以下歴代の王の大半は、神への信仰から離れ、異教の風習に染まり、社会にも、様々な悪弊が広まりました。イスラエルの歴史を書いた記者は、イスラエルの悲惨な歴史は、民を導くべき王たちの不徳によると、厳しく断罪しています。 時代が進んで、イスラエルの地に、「ユダヤ人の王」と噂されるイエスが登場し、神の言葉を語った時、多くの人々はそれに聞き入ったが、怪しむ者もいました。当時のイスラエルの指導者である祭司、律法学者、長老たちは自分たちの権威を脅かすイエスを放置できず、裁きの座に引き出し、総督ピラトの手により十字架刑に処しました。 今日の福音(ルカ)の中で、十字架に付けられたイエスに対し、衆議会の議員も、ローマ軍の兵士も、同じ十字架に付けられた犯罪人の一人も、皆、似たような言葉を吐きます。「もし、お前が神からのメシアなら、選ばれた者なら」、「ユダヤ人の王なら」、「自分を救ってみろ」と。 「自分を救う」、それは、きれいな言葉、自立した人間の考えに聞こえます。しかし、自分の知恵、力、経験、そうした自分のもてるもので何事も解決できる、という考えには、すべての人間が陥る一つの誘惑、大きな落とし穴があります。自分の問題、自分の家族、自分の仕事、自分の国が抱える問題、それは、すべて、人間が自分の力で解決できる、と考えがちです。しかし、自分を根本において生かし、支え、導く神への信頼、神への開きがなければ、人間の努力はどこかで挫折するものです。 イエスとともに十字架につけられたもう一人の犯罪人は、そのことを悟っていたのでしょうか。自分のあやまちを認め、イエスに懇願します、「あなたの御国においでになるとき、わたしを思い出してください」。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。イエスは、人を救いに導くだけでなく、自ら、主である神にすべてを委ねる僕として、生涯を全うされました。それこそが、神が求めておられた、まことの「イスラエルの王」の姿なのです。 現代の教会にとって、牧者として、イエスの姿をもっとも明白な形で示される教皇フランシスコは、わたしたちに何を語っておられるでしょうか。すでに語られた多くの言葉、そして、その振舞いから、教皇が、それまでとは違う、僕としての姿を全世界に示しておられることは疑うことができません。貧しさに徹し、人々の苦しみに心を開き、少しでもそれに寄り添い、支えようと、イエスが生きられた「王の道」を、教皇自ら生き抜いておられます。このことを感謝の内に心に留め、少しでも、それに倣う恵みを、一人一人のため、日本の教会全体のために、共にお祈りいたしましょう。(S.T.)

年間第三十三主日C年(11/16)

祈る花:Inoruhana

自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。 2テサロニケ3:12 🌸 第一朗読 (マラキ3:19-20a) マラキの預言19見よ、その日が来る炉のように燃える日が。高慢な者、悪を行う者はすべてわらのようになる。到来するその日は、と万軍の主は言われる。彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。20しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。 🌸 答唱詩編 詩編98 典149 ③④ 遠く地の果てまで、すべての者が神の救いを見た。 世界よ、神に向かって喜びの声をあげ、賛美の歌で神をほめよ。たて琴をかなでて、神をたたえ、その調べに合わせてほめ歌え。 ラッパと角笛を吹き、神の前で喜びの声をあげよ。世界とそこに住む者は神の前に喜び歌え。 🌸 第二朗読 (二テサロニケ3:7-12) 使徒パウロテサロニケの教会への手紙 7〔皆さん、あなたがたは、〕わたしたちにどのように倣えばよいか、よく知っています。わたしたちは、そちらにいたとき、怠惰な生活をしませんでした。 8また、だれからもパンをただでもらって食べたりはしませんでした。むしろ、だれにも負担をかけまいと、夜昼大変苦労して、働き続けたのです。 9援助を受ける権利がわたしたちになかったからではなく、あなたがたがわたしたちに倣うように、身をもって模範を示すためでした。 10実際、あなたがたのもとにいたとき、わたしたちは、「働きたくない者は、食べてはならない」と命じていました。 11ところが、聞くところによると、あなたがたの中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです。 12そのような者たちに、わたしたちは主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。 アレルヤ唱 典274 33C アレルヤ、アレルヤ。恐れずに頭を上げなさい。あなたがたの救いは近づいている。アレルヤ、アレルヤ。 🌸 福音朗読 (ルカ21:5-19) ルカによる福音 5〔そのとき、〕ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。 6「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」 7そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」 8イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。 9戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」 10そして更に、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。 11そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。 12しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。 13それはあなたがたにとって証しをする機会となる。 14だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。 15どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。 16あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。 17また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。 18しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。 19忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」 I 🌸 分かち合い  今年も、いよいよ大詰めが近づいてきました。年間最後の主日で、来週は王であるキリストの祭日、そして、翌週から待降節に入ります。 今日の福音では、イエスが、ガリラヤからの旅の目的地であるエルサレムに入り、一連の説教をされた後、いよいよ終末(世の終わり)について語られた言葉が読まれました。ヘロデによって、何十年もかけてなされた大修復工事が終わって、燦然と輝く神殿を前にして人々が感嘆の言葉を発していたとき、イエスは言われます、「あなたがたはこれらの物に見とれているが、ひとつの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る、」と。事実、それから、40年も経たない紀元70年、ローマ軍によって神殿をはじめエルサレムの町全体が破壊され、灰燼に帰すとはだれが想像したでしょうか。 しかし、イエスは、エルサレムの滅亡だけでなく、世界全体に及ぶ、物理的、また、人的災害について語られます。「戦争や暴動のことを聞いてもおびえてはならない。」イエスの名を騙ったり、世の終わりが近づいた、とか言うことを聞いても、信じてはいけない。戦争や地震、飢饉や疫病、天に現れる大きなしるし等、自然界の動揺が、あちこちに現れようとも、驚いてはならない、と。それに加えて、イエスに従うものに様々な苦しみが襲ってくる。ユダヤ人の会堂から追放され、王や総督の前にまで連れて行かれる。しかし、それは、キリストを証しする貴重な機会となる、と。 自然界の動揺と、人間世界の争乱、それとキリストに従う者が受ける迫害がどのように結びつくのか、自分にとっては、長い間謎でした。しかし、聖書を貫く思想をゆっくり考えてみれば、そこには、壮大なビジョンがあることに気づかされます。聖書のはじめに記されたように、この世界とそこに存在するものは、すべて、神によって、時間の中で、時間と共にあるものとして造られました。いつか始まったものには、必ず終わりの時が来るのです。自然もそこに住む人間も例外なく。そうした世界に、神の子が人となり、いつか終わりが来る人間と同じように死を味わわれました。その生と死を通して、すべてを造られた神がいかなる方であるか、造られたものとして人間はいかに生きるべきかを教えられたのです。キリストに従う決意をした弟子たちも、この世にあって、この世を超える方を証しする使命をいただきました。何と壮大な、時間と空間を包み込むビジョンでしょうか。 今日の第一朗読では、マラキの預言が読まれました。預言者の系列の最後に来る預言で、紀元前5世紀前半、捕囚から帰還して、神殿を再建し、国を復興させ、いよいよ、という時ですが、実際は、様々な問題が発生し、イスラエルは収拾の難しい状況に置かれていました。そうした状況の上に、預言者は、神が裁きを行うと宣言します。「その日が来る。高慢な者、悪を行う者はすべてわらのようになる。到来する日は、彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある」と。 人間が作りだすもの、そして、人間を取り巻く、人間が信頼を置いているものは、いつかすべて終わりが来ます。神殿も、大聖堂も、かつて栄華をほこった名城も、そして、現代の高層ビルも。その中で、変わらないもの、永遠なるものを求めて生きること、そのような信仰者の態度が、今も、そしてこれからも試されます。 どれほど立派で、人々の驚嘆の的になっていても、人間が作りだしたものには、終わる時が来る。人間が住む、この自然環境も、そして、人間が生み出したこの世の王国も、いつか滅びる時が来る。その中で、滅びぬものを求める心があるか、それが人間に試される。 イエスは言われました、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びることがない」(マタイ24.35)と。この言葉を深く味わい、一層その意味に適った生き方が出来るよう、主の導きを祈ろう。(S.T)

年間第三十主日C年(10/26)

祈る花:Inoruhana

だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる シラ書  15主は裁く方であり、人を偏り見られることはないからだ。16貧しいからといって主はえこひいきされないが、虐げられている者の祈りを聞き入れられる。17主はみなしごの願いを無視されず、やもめの訴える苦情を顧みられる。20御旨に従って主に仕える人は受け入れられ、その祈りは雲にまで届く。21 謙虚な人の祈りは、雲を突き抜けて行き、それが主に届くまで、彼は慰めを得ない。彼は祈り続ける。いと高き方が彼を訪れ、22正しい人々のために裁きをなし、正義を行われるときまで。 主を仰ぎ見て、光を受けよう。主が訪れる人の顔は輝く。 主をたたえよう、明け暮れ賛美をくちにして。主はわたしたちの口のほこり、苦しむときの心のよろこび。 主のまなざしは正しいひとに、耳は彼らのさけびに。主は正しい人の声を聞き、悩みの中から救ってくださる。 主はしいたげにあう者のそばにおられ、失意の人をささえ、主はそのしもべの魂をあがない、より頼む人を滅びからすくわれる。 使徒パウロのテモテへの手紙  6〔愛する者よ、〕わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。 7わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。 8今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。 16わたしの最初の弁明のときには、だれも助けてくれず、皆わたしを見捨てました。彼らにその責めが負わされませんように。 17しかし、わたしを通して福音があまねく宣べ伝えられ、すべての民族がそれを聞くようになるために、主はわたしのそばにいて、力づけてくださいました。そして、わたしは獅子の口から救われました。 18主はわたしをすべての悪い業から助け出し、天にある御自分の国へ救い入れてくださいます。主に栄光が世々限りなくありますように、アーメン。 アレルヤ唱 典273 30C アレルヤ、アレルヤ。神はキリストのうちに世をご自分に和解させ、和解のことばをわたしたちにゆだねられた。アレルヤ、アレルヤ。 ルカによる福音 9〔そのとき、〕自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。 10「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。 11ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。 12わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』 13ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』 14言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」  10月も後半になり、すっかり秋の気配が漂うようになりました。運動会も終わり、プロ野球もシーズンを終えましたが、スポーツ好きな日本人には、まだまだ、話題がなくなりません。今月の第二朗読では、聖パウロの手紙が読まれています。ユダヤ人でありながら、ギリシャ文化圏に育った聖パウロは、ときどき、信仰を競技場で走る人にたとえています。 ユダヤ人は元来、スポーツとはあまり縁がなかったようですが、律法を守ることに関して言えば、他人に負けない、引けをとらないように生きること、それが自分たちの誇りだったようです。「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。」若い時を振り返るパウロの言葉に、そんな雰囲気が読みとれます。今日登場するファリサイ派の人と税吏の話もそうしたことを背景に読んだらどうでしょうか。 イエスの言葉は、たとえ話なので、多少誇張があるかもしれませんが、ファリサイ派の人の言いぶりには、どこか、他者との比較、さらには、優越意識が感じられます。「わたしは、ほかの人のように、奪い取るもの、不正な者、姦通を犯す者でなく、徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」 人間は、とかく、他人と比較して自分を評価し位置づけようとします。わたしたちが生きる社会も、スポーツに限らず、いろいろな面で人を競わせ、評価し、序列化しようとします。それは、人間が自分を客観的にとらえ、より高い目標に向かって努力する刺激を与えるもので、一概に否定することはできません。しかし、それがすべてとなり、人間のそのものの評価となると弊害も少なくありません。勝つためには、手段を選ばない、という間違った考えを生む危険があります。 神に選ばれた民、イスラエルの間にも、そうした傾向が少なからずあったことは、ファリサイ派の言動から推し量ることができます。律法を守ること、掟の道を歩むことで、正しいもの、神に喜ばれるものとなり、律法を守ることのできない者、掟の道から外れる者を罪人として裁いていたのです。今日のたとえに出るファリサイ派の人は、まさにそうした人の典型と言ってよいでしょう。 しかし、イエスは、彼らと対照的に、掟を守ることができない、自分は罪人だとの自覚をもって祈る徴税人を神は「義とされた」と言われます。「遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら『神様、罪人のわたしを憐れんでください』、と言った徴税人を「へりくだるもの」として、称揚されたのです。 そこには、価値観の大きな転換があります。掟を守ることによって、自分の正しさを誇りとする者に対して、自分の罪深さを認め、神に憐みをこう者を良しとする、新しい見方です。ルカの福音の中で、珠玉のように輝く、「放蕩息子のたとえ」も、まさに、自分の罪深さを認め、赦しを乞い、悔い改めるものを良しとされる、神の憐みの愛を教えるものです。 ただ、忘れてならないことは、そうした自らを正しいものと自認する者を神がお見捨てになったかと言うと、決してそうでないことも放蕩息子のたとえの父親は教えています。放蕩に身をやつし、回心して家に戻って来た弟を受け入れることのできなかった兄に対しても、父親は、愛の眼差しを向けます。この父親のように、自らの正しさを誇りに思う者をも、神は回心へと招いてくださるのです。 「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」、その中に、わたしたちも含まれているかもしれません。自らの小ささ、至らなさ、罪深さを、新たな心で悟り、へりくだって主に祈る恵みを願いましょう。(S.T.)

年間第二十九主日C年(10/19)

祈る花:Inoruhana

聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、 出エジプト記 8アマレクがレフィディムに来てイスラエルと戦ったとき、 9モーセはヨシュアに言った。「男子を選び出し、アマレクとの戦いに出陣させるがよい。明日、わたしは神の杖を手に持って、丘の頂に立つ。」 10ヨシュアは、モーセの命じたとおりに実行し、アマレクと戦った。モーセとアロン、そしてフルは丘の頂に登った。 11モーセが手を上げている間、イスラエルは優勢になり、手を下ろすと、アマレクが優勢になった。 12モーセの手が重くなったので、アロンとフルは石を持って来てモーセの下に置いた。モーセはその上に座り、アロンとフルはモーセの両側に立って、彼の手を支えた。その手は、日の沈むまで、しっかりと上げられていた。 13ヨシュアは、アマレクとその民を剣にかけて打ち破った。 神よ、あなたの顔の光をわたしたちの上に照らしてください。 神はおまえの足を堅く立て、まどろむことなくまもられる。イスラエルを守るかたは、眠ることもまどろむこともない。 神はおまえのまもり。そのかげはおまえをおおう。昼は太陽に打たれることなく、夜は月に打たれることもない。 神はすべての悪からおまえをまもり、いのちをささえられる。神はおまえの旅路をまもられる、今より、とこしえに。 使徒パウロのテモテへの手紙 14〔愛する者よ、〕自分が学んで確信したことから離れてはなりません。あなたは、それをだれから学んだかを知っており、 15また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。 16聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。 17こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。 1神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。 2御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。 アレルヤ唱 典270 29C アレルヤ、アレルヤ。神のことばは生きていて力があり、心の思いと計画をわきまえる。アレルヤ、アレルヤ。 ルカによる福音 1〔そのとき、〕イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。 2「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。 3ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。 4裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。 5しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」 6それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。 7まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。 8言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」  「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」。ルカの福音には、祈りについての言葉がよく出るし、主イエスが大事な場面で必ず祈っておられたことも記す。公生活も次第に終わりが近づいた時点で語られた今日の言葉は何を語っているのだろう。 「やもめと裁判官」のたとえ、と題されているが、聖書の中で、やもめは社会の中で最も弱い立場に置かれたものとして、旧約聖書にも度々登場する。「孤児、やもめ、外国からの寄留者」を大切にするようにという言葉は、律法や預言者の言葉に繰り返し登場する。しかし、現実には、彼らの弱さに付け込んで、様々な不正を働く人間、さらには裁判官がいた(イザヤ10.1∼2)ことも事実のようだ。そうした裁判官に代わって、神自らお裁きになることを、詩編は語る、「とこしえにまことを守られる主は虐げられている人のために裁きをし、飢えている人にパンをお与えになる。」(詩146.7)、と。 様々な苦しみに悩むやもめは裁判官に訴えるが、彼は取り合おうとしない。しかし、「うるさくてかなわないから、彼女のために裁判してやろう」と言う。そんなたとえを引き合いに、主は言われる、「神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。」と。 ルカがこうした言葉を記したのは、主イエスの十字架上の死、そして、復活後、数十年が経った1世紀も終わりが近づいた頃のこと。教会の発展の基礎が築かれた時代とはいえ、実際には、同胞ユダヤ人からの迫害によりエルサレムを追われ、さらには、新しい権力機構、ローマ帝国の支配下にあって、自分たちの信仰を公言し、神の国の到来を確信するにはほど遠い状況だったのではないか。 当初、人々が抱いていた世の終わり(終末)が近いという考えは、否定されたとはいえ、イエスを信じ、イエスに従った自分たちの将来はどうなるのか、という素朴な不安・恐れがキリスト者の間に広まっていたとしても不思議ではない。そのような状況の中で、イエスの言葉は大きな支えと励ましになったのではないか。「気を落とさずに絶えず祈りなさい」。 わたしたちが生きる現代、人類が抱えている問題はかつて以上に大きく、深く、容易な解決の見えないものばかりに思われる。以前からあった国家や民族間の緊張・紛争に加え、ウクライナで突然始まった想像を超える戦争の悲惨な現実、そして、東アジアの隣国から迫られる緊張。そして、フランシスコ教皇が、近年の回勅「ラウダ―ト・シ」で言及される地球温暖化の問題、さらには、最新の回勅「兄弟の皆さん」で触れられる世界全体に及ぶ経済格差、貧困、飢餓の問題等々。また、わたしたち自身が日々直面する家族の問題、仕事上の問題等。キリストを信じ、すべてをキリストに託したわたしたちも、人間の無力さやるせなさを感じ、時に、希望を失い、呆然自失に陥ることも少なくないかもしれない。しかし、主は言われる、「気を落とさず、祈りなさい」と。 エジプトの奴隷状態から解放され、約束の地に向かうイスラエルの前に立ちはだかるアマレク人との戦い。モーセが手を上げている間=神に祈っている間、イスラエルは優勢となり、手を下ろすとアマレクが優勢になった、と第一朗読で読まれた「出エジプト記」は記します。困難を乗り越えることができたのは、自分たちの力ではなく、神への祈りがあってのことです。 世を去る時が近づいたことを知ったパウロは、愛する弟子テモテに書き送ります、「神の前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます、御言葉を宣べ伝えなさい。」と。 これは、今の時代に生きるわたしたちにも語られた言葉です。「折が良くても悪くても励みなさい。」御言葉を宣べ伝える、それは、主イエスへの信仰を、確信をもって、人々の前で生きることです。どのような状況に置かれても、わたしたちが、自分の力や知恵に頼って生きるのではなく、神がわたしたちを支え、導き、生かして下さることを行動をもって、生き方を通して、人々に示すことです。 わたしたち、キリスト者の存在意義は、それがどんなに小さい働きに見えるとしても、この人間の思い通りにならない現実の中に、あの復活された主が生き、働いておられることを告げ知らせることだと、あらためて悟る恵みを祈ろう。(S.T.)

年間第二十八主日C年(10/12)

あなたの信仰があなたを救った  列王記 14〔その日、シリアの〕ナアマンは神の人の言葉どおりに下って行って、ヨルダンに七度身を浸した。彼の体は元に戻り、小さい子供の体のようになり、清くなった。 15彼は随員全員を連れて神の人のところに引き返し、その前に来て立った。「イスラエルのほか、この世界のどこにも神はおられないことが分かりました。今この僕からの贈り物をお受け取りください。」 16神の人は、「わたしの仕えている主は生きておられる。わたしは受け取らない」と辞退した。ナアマンは彼に強いて受け取らせようとしたが、彼は断った。 17ナアマンは言った。「それなら、らば二頭に負わせることができるほどの土をこの僕にください。僕は今後、主以外の他の神々に焼き尽くす献げ物やその他のいけにえをささげることはしません。 遠く地の果てまで、すべての者が神の救いを見た。 新しい歌を神にうたえ。神は不思議なわざを行われた。神の偉大な右の手、そのとうとい腕は救いの力。 神は救いをしめし、諸国の民に正義を現された。いつくしみとまことをもって、イスラエルに心を留められる。 世界よ、神に向かって喜びの声をあげ、賛美の歌で神をほめよ。たて琴をかなでて神をたたえ、その調べに合わせてほめ歌え。 使徒パウロのテモテへの手紙   8〔愛する者よ、〕イエス・キリストのことを思い起こしなさい。わたしの宣べ伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです。 9この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません。 10だから、わたしは、選ばれた人々のために、あらゆることを耐え忍んでいます。彼らもキリスト・イエスによる救いを永遠の栄光と共に得るためです。 11次の言葉は真実です。「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。12耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる。キリストを否むなら、キリストもわたしたちを否まれる。13わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を否むことができないからである。」 アレルヤ唱 典273 28C アレルヤ、アレルヤ。すべてについて感謝しなさい。神はキリスト・イエスのうちにあって、あなたがたにこれを望んでおられる。アレルヤ、アレルヤ。 ルカによる福音 11イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。 12ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、 13声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。 14イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。 15その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。 16そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。 17そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。 18この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」 19それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」  昨日は、変化の激しい天気が続く中で、暑くもなく寒くもない、絶好の天気のもとで、天使幼稚園の運動会が予定通り開催でき、ほっとしております。大きな恵みをいただいたわたしたちに、今日のみことばは何を語っているでしょうか。 今日の福音は、皆さんよくご存じの、重い皮膚病(現代では、その多くはハンセン病)を癒していただいた10人の人の話しです。現代、多くの国では、すぐれた治療薬の開発により、ほとんど罹患者はみられなくなりましたが、昔は、日本でも非常に恐れられ、その存在が抹殺されたような状況で生きることを強いられる病気でした。イエスは、その活動の始めから、そうした病気を患っている人に近づき、いやしの恵みを与えられたことがどの福音書にも記されています。 今日のルカだけが記している話では、10人の病者が、イエスに近づき、「先生、わたしたちを憐れんでください」と、遠くから叫んだと記しています。感染を恐れて家族からも切り離されてみじめな状態で日々を送っていた人々にとって、不思議な力をもっていたイエスは、大きな希望であったに違いありません。イエスは、彼らに近づき、「祭司たちに体を見せなさい」と言われます。万一、その病気が癒された場合には、祭司に体を見せ、回復を確認してもらうことが、律法によって定められていました。そして、そこへ行く途中、彼らの病気は去り、いやされたのです。 しかし、それを知って、神を賛美しながらイエスのもとに戻り、足元にひれ伏して感謝したのは、ただ一人、しかも、(ユダヤ人と関係のよくなかった)サマリア人だった、とルカは記します。他の9人は何をしたのでしょうか。回復を認めてもらい、健康な人間として人々との交わりに戻るために、祭司のところに行ったかもしれません。その戻って来たサマリア人にイエスは言われます、「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と。 病気の癒しは、神の特別な恵みです。しかし、その恵みがどこから来たのか、それを悟るのは、その人の信仰によるものです。この感謝するために戻って来たサマリア人は、ただ、自分の健康の回復を喜ぶだけでなく、そのいやしが単なる偶然、あるいは幸運ではなく、まさに、神の業であること、イエスという方を通してなされた神のいつくしみのわざであることを即座に悟ったのです。感謝の行為は、まさに、その神への信仰の表れなのです。 第一朗読(列王記)に記されたシリアの王の軍司令官、ナアマンは、預言者エリシャを通して、同じ病気から癒されたことを、神の業と認識することができました。彼も神の業を感得するセンス、感受性をもっていたのです。イエスは、この出来事を、ご自分の説教(ルカ4章)の中でも触れておられます。 人間は、とかく、自分に与えられているもの、人からしていただいていることを当然とし、感謝することを忘れます。それは、受けた恵みにだけ思いが向かい、それを与える人、さらには、すべてのよいものの与え主である神への思いが欠けているからです。一人一人の健康のことだけでなく、現代人が受けている様々な恩恵、都会生活の中で当然と思われている、電気、水道、ガス、交通網、情報、そうしたものが、どこから来るか、今一度考えてみる必要があるのではないでしょうか。コロナ禍の不自由な生活の中で、そうした点について、たびたび考えさせられましたが、たとえ、コロナが終息し、かつての状況に戻ったとしても、感謝の心を忘れないよう心掛けましょう。 今年もまた、猛烈な台風や集中豪雨によって、大きな被害を受け、容易に傷が癒されない方がたくさんおられます。さらには、突然の隣国からの攻撃により、家族も財産も一瞬に奪われ、悲惨な状況に追い込まれた人々のことも思い起しましょう。そして、平安のうちに生きることを許されていることを感謝しながら、同時に、わたしたちが同じ地球に、同じ人間社会に生きることを思い、いただいている様々な恵みに感謝し、そうしたものの与え主である神に感謝と賛美を捧げ、それに日々お応えすることができるよう願いながらミサを続けましょう。(S.T.)

年間第二十七主日C年(10/5)

祈る花:Inoruhana

わたしどもは取るに足りない僕です。 ハバククの預言2主よ、わたしが助けを求めて叫んでいるのにいつまで、あなたは聞いてくださらないのか。わたしが、あなたに「不法」と訴えているのにあなたは助けてくださらない。3どうして、あなたはわたしに災いを見させ労苦に目を留めさせられるのか。暴虐と不法がわたしの前にあり争いが起こり、いさかいが持ち上がっている。2主はわたしに答えて、言われた。「幻を書き記せ。走りながらでも読めるように板の上にはっきりと記せ。3定められた時のためにもうひとつの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。4見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」 神に向かって喜び歌い、感謝の歌をささげよう。 神に向かって喜びうたい、救いの岩に声をあげよう。感謝に満ちてみ前に進み、楽の音に合わせ神をたたえよう。 海は神のもの、神に造られたもの。陸も神のもの、神に形造られたもの。身を低くして伏し拝もう、わたしたちを造られた神の前に。 神は、わたしたちの神。わたしたちは神の民、そのまきばのひつじ。きょう、神の声を聞くなら、神に心を閉じてはならない。  使徒パウロのテモテへの手紙 6〔愛する者よ、〕わたしが手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます。 7神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。 8だから、わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください。 13キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい。 14あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。 アレルヤ唱 典270 27C アレルヤ、アレルヤ。あなたがたに宣べ伝えられた福音は、永遠にとどまる神のことば。アレルヤ、アレルヤ。 ルカによる福音 5使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、 6主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。 7あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。 8むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。 9命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。 10あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」   今日のみ言葉には、「信仰」という言葉が繰り返し出てきます。福音では、使徒たちが「わたしどもの信仰を増してください」とイエスに願い、第一朗読のハバククの預言では、「神に従う人は信仰によって生きる」とあり、第二朗読では、パウロは、愛するテモテに「信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい」と記しています。 洗礼によって、信仰をいただいてわたしたちは、皆、神を信じて生きるものとなりましたが、どこかで、自分の信仰が弱く、不十分で、中途半端だと感じています。「信じます」と言いながら、神の力よりも、自分の力を信頼して、生きていると感じることが少なくありません。「信仰」はわたしたちキリスト者の根本的な姿勢であり、「信仰」こそが、わたしたちを人々との違いを特徴づけるものであるはずですが、実際は、それほど確信をもって、「そうだ」と言えないのが現実ではないでしょうか。 ルカ福音書の中で、使徒たちはイエスに、「わたしたちの信仰を増してください」と願います。直前に出る話では、ゆるしのことがテーマになっています。日に七回でも、「悔い改めます」、と言ってくるなら、「ゆるしてやりなさい」、というのがイエスの教えです。そんなことができるか、という思いが、使徒たちの質問になったのかもしれません。それに対してイエスは、「からし種一粒ほどの信仰があれば、桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くだろう」、と言われます。「山を動かすほどの信仰」という言葉もあります。それは、信仰の大きさではなく、信仰があるかないか、信じるか信じないか、の問題だと言っておられるようにも受け取れます。つまり、信仰というものは、条件づきではなく、手放しで、無条件で、自分を全面的に神の力に委ねることだと、言っておられるようにも、受け取れます。 第一朗読の『ハバククの預言』は、紀元前7世紀、ユダ王国の末期に活躍した預言者の言葉とされていますが、今日、あえてこの個所が選ばれたのは、最後の言葉、「神に従う人は信仰によって生きる」のためではないでしょうか。この言葉は、新約聖書、特に、聖パウロの手紙に引用されたことで、有名になりました。パウロが、その深い神学的洞察を展開した『ローマの教会への手紙』の冒頭で、彼は言います、「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は、信仰によって生きる』と書いているとおりです」(ローマ1.17)、と。その後の章やガラテヤの教会への手紙でも、繰り返し、この言葉「信仰」に触れていますが、それは、ユダヤ人が何よりも大切にしてきた「律法」の行いと対比して語っているのです。ユダヤ人は、律法を守り行うことによって、神を喜ばすことができる、神の義を得ることができる、神によって救われると信じてきました。しかし、パウロは、その大前提を否定し、人が救われるのは、律法の行いではなく、主イエス・キリスト、しかも、十字架で亡くなられたイエスを信じることによるのだと主張するのです。律法を知らず、律法を守ることのできないユダヤ人以外の人々、異邦人が救われるのは、まさに、主イエスへの信仰によることをパウロは力説するのです。プロテスタントの信仰を大きく発展させたルターの思想も、実は、この点に根拠を置いているのです。 キリスト者は、律法の行いではなく、もっぱら、主イエスへの信仰に生きるものと言われますが、はたして、律法に代わって、教会の中で行われる様々な善行、奉仕、献身、正しい生き方(祈り、秘跡、ミサへの参加、献金等)によって救われる、と思っていることはないでしょうか。「信じます」と言いながら、どこかで、自分を守り、自分の都合や条件に合わせて信じようとしていないでしょうか。リスクを取らず、安全第一で生きようとするなら、信仰の入る余地はありません。自分の行いではなく、罪深い自分を救おうとされる神への信仰によって救われることを確信し、自分の正しさを保証するものを手放し、無条件で、神の愛に自らを委ねる生き方ができますように、祈りましょう。それこそが、信仰者としてのわたしたちに求められていること、人々が暗にわたしたちに期待していることです。神ご自身がわたしたちに望んでおられることです。(S.T.)

年間第二十六主日C年(9/28)

祈る花:Inoruhana

神に誉れと永遠の支配がありますように アモスの預言〔主は言われる。〕1災いだ、シオンに安住しサマリアの山で安逸をむさぼる者らは。4お前たちは象牙の寝台に横たわり長いすに寝そべり羊の群れから小羊を取り牛舎から子牛を取って宴を開き5竪琴の音に合わせて歌に興じダビデのように楽器を考え出す。6大杯でぶどう酒を飲み最高の香油を身に注ぐ。しかし、ヨセフの破滅に心を痛めることがない。7それゆえ、今や彼らは捕囚の列の先頭を行き寝そべって酒宴を楽しむことはなくなる。 いのちあるすべてのものは、神をたたえよ。 神はとこしえにまことをしめし、貧しい人のためにさばきをおこない、飢えかわく人にかてをめぐみ、捕らわれびとを解放される。 神は見えない人の目をひらき、従う人をあいされる。身寄りのない子どもとやもめをささえ、逆らう者の企てを砕かれる。 使徒パウロのテモテへの手紙 11し神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。 12信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。 13万物に命をお与えになる神の御前で、そして、ポンティオ・ピラトの面前で立派な宣言によって証しをなさったキリスト・イエスの御前で、あなたに命じます。 14わたしたちの主イエス・キリストが再び来られるときまで、おちどなく、非難されないように、この掟を守りなさい。 15神は、定められた時にキリストを現してくださいます。神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、 16唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です。この神に誉れと永遠の支配がありますように、アーメン。 アレルヤ唱 典273 26C アレルヤ、アレルヤ。イエス・キリストは富んでおられたのに、貧しくなられた。あなたがたがキリストの貧しさによって富むように。アレルヤ、アレルヤ。 ルカによる福音 19〔そのとき、イエスはフャリサイ派の人々に言われた。〕「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。 20この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、 21その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。 22やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。 23そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。 24そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』 25しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。 26そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』 27金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。 28わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』 29しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』 30金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』 31アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」  今日の福音は、金持ちとラザロの話し。ルカは、神のいつくしみの愛を教える印象深いたとえ話を多く伝えていますが、今日の福音は、その裏返しのような、人間の冷たさ・醜さを感じさせる物語です。 贅沢に遊び暮らす金持ちが死に、門前に横たわり、残飯を頼りに生きるラザロも死ぬ。生前悪いものをもらっていたラザロはアブラハムの懐へ、金持ちは陰府の世界でもだえ苦しむ。そして、二人の間には、越えることのできない深い淵が広がる。金持ちは、自分の兄弟には、こんなひどい目に会わないように、ラザロを送ってください、とアブラハムに願うが、「兄弟たちには、モーセと預言者がある、それに聞けばよい」、とあしらわれる。それに聞かないなら、たとえ死者がよみがえっても、それに聞くことはないだろう、とも言われる。 この話を読んで気づくことは、金持ちが特段、悪人だったということではなく、また、ラザロも、特に善人だったということでもありません。ごくありふれた、どの時代にも、どの世界にもありそうな経済格差が生み出す悲しい現実がそこにあります。ただ、言えることは、金持ちが毎日目にしていた門前のラザロに無関心で、それによって、彼の死後の運命が決まった、ということです。 これは、人々に対する戒め、警告の物語です。もし、身近にいる、貧しい人、悩める人、病める人に、心を閉じていれば、この金持ちのような状態を招くかもしれない。逆に、たとえ、豊かさに恵まれていたとしても、悔い改めて、それを独り占めせず、人々と分かち合うことをすれば、きっと神の救いに与ることができる、ということではないでしょうか。これは、イエスの独自の教えと言うより、旧約の教え、預言者の教えの中で、繰り返し、強調されてきたことです。アブラハムの言葉にある、「モーセと預言者」という言い方は、まさにそれを表わしています。 第一朗読ではアモスの預言が読まれました。アモスは、紀元前8世紀、南北に分裂した王国が、北方の強国アッシリアの脅威にさらされていたとき、王国の指導者たちを厳しく批判した預言者です。貧しい人々の悲惨と社会に蔓延する不正を放置し、自分たちだけが安逸をむさぼる状態に、神が審判を下されることを預言します。事実30年後、アモスの預言から間もない時期に、強国アッシリアは一気に南下し、北王国イスラエルは滅ぼされ、南王国ユダもアッシリアの属国とされます。 アモスの預言には、厳しい言葉、神の審判の話が次々に出て来ますが、最後には、神の救いへの希望の言葉が記されています。事実、アッシリアの後に起きたバビロニアによって滅ぼされた南王国ユダは、国王以下、多くの民が捕囚となってバビロンでの幽囚の生活を送りますが、預言者たちが口を揃えて預言したように、ペルシャの時代になって、祖国への帰還を実現します。 貧者ラザロを放置して、この世の生を終えた金持ちに対する厳しい言葉にみちたこのたとえは、決して、神の最後的審判を告げるものではありません。あくまで、人々の回心を願い、悔い改めを喜びとする、神のいつくしみを告げるイエスの警告の言葉として聞かなければなりません。 たとえに出る金持ちは、決してわたしたちと縁遠い存在ではありません。また、門前に横たわるラザロは、わたしたちから遠く離れた存在でもありません。ごく近くにいて、その痛み・苦しみ・孤独を、無関心ゆえに見過ごしている兄弟姉妹かもしれません。今日のみ言葉を、あまりにも、自分のしあわせ・都合・仕事・休暇を優先させるあまり、兄弟姉妹の必要に目を閉ざしているわたしたちへの、いつくしみに満ちた神の言葉として受け止めることができるよう恵みを祈りましょう。(S.T.)

年間第二十五主日C年(9/21)

祈る花:Inoruhana

ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である アモスの預言  4このことを聞け。貧しい者を踏みつけ苦しむ農民を押さえつける者たちよ。5お前たちは言う。「新月祭はいつ終わるのか、穀物を売りたいものだ。安息日はいつ終わるのか、麦を売り尽くしたいものだ。エファ升は小さくし、分銅は重くし、偽りの天秤を使ってごまかそう。 6弱い者を金で、貧しい者を靴一足の値で買い取ろう。また、くず麦を売ろう。」7主はヤコブの誇りにかけて誓われる。「わたしは、彼らが行ったすべてのことをいつまでも忘れない。」 神の名はあまねく世界に輝き、その栄光は天にそびえる。 ほめよ、神に仕える者よ、神の名をほめたたえよ。神の名に賛美、今よりとこしえに。 日ののぼるところから沈むところまで、神の名はたたえられる。神はすべての民にあがめられ、その栄光は天にそびえる。 神は貧しい人を立ち上がらせ、恵まれない人を高く上げ、支配者とともにすわらせ、民のかしらとともに並ばせる。 使徒パウロのテモテへの手紙 1〔愛する者よ、〕まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。 2王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。 3これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです。 4神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。 5神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。 6この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。これは定められた時になされた証しです。 7わたしは、その証しのために宣教者また使徒として、すなわち異邦人に信仰と真理を説く教師として任命されたのです。わたしは真実を語っており、偽りは言っていません。 8だから、わたしが望むのは、男は怒らず争わず、清い手を上げてどこででも祈ることです。 アレルヤ唱 典270 25C アレルヤ、アレルヤ。イエス・キリストは富んでおられたのに、貧しくなられた。あなたがたがキリストの貧しさによって富むように。アレルヤ、アレルヤ。 ルカによる福音 1〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄遣いしていると、告げ口をする者があった。 2そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』 3管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。 4そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』 5そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。 6『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』 7また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』 8主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。 9そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。 10ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。 11だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。 12また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。 13どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは神と富とに仕えることはできない。」  今日の福音は、ルカ福音書の16章から取られています。この世に生きる弟子たち、また、人々に語られたイエスの言葉ですが、繰り返し出てくるのは、「管理者」という言葉です。「管理者」と言えば、会計や財務の仕事、お金や物の管理を任された人と考えがちですが、もとの言葉、oikonomos (economus)はもう少し広く、家全般の世話をする、家の責任を任された人を指す言葉のようです。 前半の話では、イエスは、多額の資産の管理を任されていた管理者が、ひそかに行っていた不正を告発されながら、姑息な手を使って何とか生き延びた話を例に、より値い高い永遠の富を委ねられたものが、心すべき教えを説いておられます。 そこで打ち出された考えの一つは、「小さなことに忠実なものは、大きなことにも忠実である」という言葉です。小学校の時に聞いた、「小事に忠なる者は大事にも忠なり」は今でも忘れられません。ごく常識的な教えとも取れますが、この世における富の大小の問題ではなく、この世の富と、それと比較できないほど大きな天の富を対比しておられたのでしょう。天の富について教えられたものが、とかく、この世のことをおろそかにすることへの戒めなのかもしれません。「不正にまみれた富」とは、不正な手段で手に入れた富のことではなく、「この世の富」そのものを意味します。この世の富、神から与えられたもの、に忠実でなければ、どうして本当に価値あるもの、天の富をいただくことができましょうか。 しかし、最後に加えられた言葉、「どんな召使いも二人の主人に仕えることはできない。・・・あなたがたは、神と富に仕えることはできない」、を忘れてはなりません。結局、「この世の富」、そして、それに対する忠実を大事にするとしても、唯一の主である神を忘れることは決してあってはならない、という強い教えではないでしょうか。 高齢者の皆さんは、長い人生の間、様々な経験を積んでこられました。うれしいこと、楽しいこと、感動されたこともたくさんおありだったでしょう。同時に、辛い経験、忘れたいと思っても忘れられない苦い経験もあるかもしれません。その中には、この世の富にかかわることもきっと多くあるでしょう。しかし、今、その大きな務め、責任から解放され、もっと、心を天の富に向けるときかもしれません。この世の富から、解き放たれ、変わることのない富、永遠の富である、神ご自身に一歩近づく大事な時です。教皇フランシスコは、「祖父母と高齢者のための世界祈願日」のメッセージの中で、「年を取ることは、呪いではなく、祝福です」と言っておられます。そして、「わたしたちが手にした最も尊い道具、わたしたちの年代にもっともふさわしい道具を、もっとたくさん、もっと上手に使うことを覚え、それを果たしていきましょう。その道具とは、祈りです」と。今までお受けになった数限りない恵みに感謝しながら、一層神を賛美する日々、そして、人々のために祈る日々を送ることができますようお祈りしながらミサを続けましょう。(S.T.)

年間第二十三主日C年(9/7)

祈る花:Inoruhana

神の計画を知りうる者がいるでしょうか 知恵の書 13神の計画を知りうる者がいるでしょうか。主の御旨を悟りうる者がいるでしょうか。14死すべき人間の考えは浅はかで、わたしたちの思いは不確かです。15朽ちるべき体は魂の重荷となり、地上の幕屋が、悩む心を圧迫します。16地上のことでさえかろうじて推し量り、手中にあることさえ見いだすのに苦労するなら、まして天上のことをだれが探り出せましょう。17あなたが知恵をお与えにならなかったなら、天の高みから聖なる霊を遣わされなかったなら、だれが御旨を知ることができたでしょうか。18こうして地に住む人間の道はまっすぐにされ、人はあなたの望まれることを学ぶようになり、知恵によって救われたのです。」 神のはからいは限りなく、生涯わたしはその中に生きる。 あなたは人に、「もとにもどれ」とおおせになり、人はちりにもどされる。あなたがいのちを断たれると、人は眠りにおちいる。 あなたの目には、千年も過ぎ去ったいち日のよう、夜回りのひと時に過ぎない。人のいのちはくさのよう、あしたには花を開くが、夕べにはしおれて枯れる。 だれがあなたの怒りの力をさとり、憤りの恐ろしさを知っているのか。残された日々を数えることをおしえ、知恵に向かう心をあたえてください。 使徒パウロのフィレモンへの手紙   9〔愛する者よ、〕年老いて、今はまた、キリスト・イエスの囚人となっている、このパウロが。 10監禁中にもうけたわたしの子オネシモのことで、頼みがあるのです。  12わたしの心であるオネシモを、あなたのもとに送り帰します。 13本当は、わたしのもとに引き止めて、福音のゆえに監禁されている間、あなたの代わりに仕えてもらってもよいと思ったのですが、 14あなたの承諾なしには何もしたくありません。それは、あなたのせっかくの善い行いが、強いられたかたちでなく、自発的になされるようにと思うからです。 15恐らく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれません。 16その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです。 17だから、わたしを仲間と見なしてくれるのでしたら、オネシモをわたしと思って迎え入れてください。 アレルヤ唱 典270 23C アレルヤ、アレルヤ。あなたの顔をわたしの上に輝かせ、掟を授けてください。アレルヤ、アレルヤ。 ルカによる福音 25〔そのとき、〕大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。 26「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。 27自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。 28あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。 29そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、 30『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。 31また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。 32もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。33だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」  9月に入って、学校も幼稚園も始まり、子どもたちの元気な声が戻ってきました。しかし、わたしたちの生きている世界は、相変わらず、そして、以前よりも、多くの難しい問題にあふれていることも事実です。コロナの感染は一向に収まらず、ウクライナでの戦争を終結の兆しが見えません。国内政治もとても落ち着いているとは言えません。さらに、集中豪雨に加え、台風も接近しています。 そんな状況の中で、あえて、ルーティンのように教会に集まり、み言葉に耳を傾け、共に祈り、聖体をいただき、まるで何事もなかったかのように家路につくのはなぜでしょうか。この問題だらけの世界、そして、人間が住みかとしている地球そのものも、地球温暖化の問題や、異常気象の発生、そして、いつ起きてもおかしくない巨大地震が象徴するように、とても安心できる状態にあるとは言えません。だからこそ、今日の日は、「被造物を大切にする世界祈願日」にさだめられているのです。そんな変転極まりない現実の中で不安を抱きながら、わたしたちは皆、どこかで変わらないもの、頼りになるものを求めています。いわば、荒れ狂う海の中で、方角を示す羅針盤、変わらない北を指す指標を探し求めているかのようです。便利な車のナビさえも働かない、そんな行き先の見えない旅路を照らす光を求めているのです。 今日のみ言葉は、そんなわたしたちに何を語っているのでしょうか。第一朗読の『知恵の書』は、そんなわたしたちの不安と恐れの対極をなす、確かな方、誤ることのない方がおられ、人間に知恵と霊を送ってくださると語ります。「死すべき人間の考えは浅はかで、朽ちるべき体は魂の重荷となり、地上の幕屋が、悩む心を圧迫します。・・・あなたが知恵をお与えにならなかったなら、天の高みから聖なる霊を遣わされなかったなら、だれがみ旨を知ることができたでしょうか」と。旧約の知恵は、愚かで悩みに満ちた存在、限界に包まれた人間に、大いなる存在、変わらない存在そのものである神が、自らを現わし、かかわってくださると教えます。 そして、福音は、神から遣わされた主イエスこそが、神のみ旨、神の望みを告げる真の知恵と霊を授ける方であると告げます。イエスが示す神のみ旨、神の望みは、人間の知恵の教えとは異なります。真の知恵を得ようとするもの、真の道を歩もうとするものにイエスは言われます、「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子ども、兄弟、姉妹を、さらに、自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来るものでなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」と。人間にとって、一番頼りになると思っている家族、さらには自分自身の命でさえ、憎む(=手放す、放棄する、捨てる)のでなければ、そして、自分が最も避けたいと思う十字架を担ってついて来なければ、イエスの弟子ではありえない、と。さらに言われます、「自分の持ち物を一切捨てないならば、誰一人として私の弟子ではありえない」と。はたして、一体、だれがそのような道をあえて選ぶでしょうか。 しかし、教会の歴史を振り返ると、文字通り、そのような道を歩んだ人たちがおられます。初期のキリスト者、まだキリスト教が公認されず、迫害が広がっていた時代イエスに心底従おうと思った人は、すべてを投げ打って、殉教の道に進むことをためらいませんでした。そして、迫害が終わり、平和が訪れたとき、真剣にイエスに従おうと思った人々は、ぬるま湯のような街中を離れ、孤独な独居生活を送って祈りにまい進したり、共同生活をしながら祈りと労働に励む修道生活を始めた人々もいました。そして、時代が進んで修道生活の中にも様々な問題が生じたとき、街中に戻り、貧しさの中で、福音を宣べ伝える新しい道を切り開いた人もいました。そして、時代の要請に応え、より広い社会の中で、様々な活動を通して福音の喜びと希望を人々に証ししようとする動きは、今も絶えることはありません。 人間誰もが持っている執着を捨て、これこそが自分ものと思っているものをすべてかなぐり捨てて、主イエスに倣って生き続けようとすることは、だれにでも開かれた道です。そして、このイエスに従って生きることこそが、不安や闇に道を迷う人々に真の光を照らし続ける道なのです。今日も、こうした神の家に集う恵みをいただいてわたしたちが、主の招きに応え、主の示される道を勇気をもって歩きだす恵みを祈りましょう。(S.T.)