王であるキリスト 祭日(11/23)

祈る花:Inoruhana

すべてのものは御子によって支えられています サムエル記 1〔その日、〕イスラエルの全部族はヘブロンのダビデのもとに来てこう言った。「御覧ください。わたしたちはあなたの骨肉です。 2これまで、サウルがわたしたちの王であったときにも、イスラエルの進退の指揮をとっておられたのはあなたでした。主はあなたに仰せになりました。『わが民イスラエルを牧するのはあなただ。あなたがイスラエルの指導者となる』と。」 3イスラエルの長老たちは全員、ヘブロンの王のもとに来た。ダビデ王はヘブロンで主の御前に彼らと契約を結んだ。長老たちはダビデに油を注ぎ、イスラエルの王とした。 わたしたちは神の民、そのまきばの群れ。 「神の家に行こう」と言われて、わたしの心は喜びにはずんだ。エルサレムよ、わたしたちは今、おまえの門のうちに立っている。 しげく連なる町、エルサレム、すべての民の都。そこにはイスラエルの部族、神の民がのぼって来る。 イスラエルのおきてに従い、神に感謝をささげるために。そこにはさばきの座、ダビドの家の座がすえられている。 使徒パウロのコロサイの教会への手紙  12〔皆さん、わたしたちは、〕光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなたがたがあずかれるようにしてくださった御父に感謝するように。 13御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。 14わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。 15御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。 16天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。 17御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。 18また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。 19神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、 20その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。 アレルヤ唱 典266 王であるキリスト アレルヤ、アレルヤ。主の名によって来られるかたに賛美。わたしたちの父、ダビドの国に祝福がありますように。アレルヤ、アレルヤ。 ルカによる福音 35〔そのとき、議員たちはイエスを〕あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」 36兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、 37言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」 38イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。 39十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」 40すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。 41我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」 42そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。 43するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。  今日は、年間の最後の主日、王であるキリストの祭日です。この1年の間にいただいた様々な恵みに感謝するとともに、来週から始まる新しい典礼年に向けて、わたしたちが主と仰ぐ王であるキリストは、どのような方であるか、どのような王に従ってゆこうとしているかを、一人一人自分なりに考えてみるときだと言えます。 第一の朗読(サムエル記下)では、ダビデがヘブロンでイスラエルの王になったことが読まれました。ダビデは、ヘブロンで7年、エルサレムで33年、イスラエルを治めたと聖書は記しています。ダビデは、イスラエルを強い国に発展させながら、神への忠実を守り、理想の王として、尊敬されていますが、彼の後を継いだソロモン以下歴代の王の大半は、神への信仰から離れ、異教の風習に染まり、社会にも、様々な悪弊が広まりました。イスラエルの歴史を書いた記者は、イスラエルの悲惨な歴史は、民を導くべき王たちの不徳によると、厳しく断罪しています。 時代が進んで、イスラエルの地に、「ユダヤ人の王」と噂されるイエスが登場し、神の言葉を語った時、多くの人々はそれに聞き入ったが、怪しむ者もいました。当時のイスラエルの指導者である祭司、律法学者、長老たちは自分たちの権威を脅かすイエスを放置できず、裁きの座に引き出し、総督ピラトの手により十字架刑に処しました。 今日の福音(ルカ)の中で、十字架に付けられたイエスに対し、衆議会の議員も、ローマ軍の兵士も、同じ十字架に付けられた犯罪人の一人も、皆、似たような言葉を吐きます。「もし、お前が神からのメシアなら、選ばれた者なら」、「ユダヤ人の王なら」、「自分を救ってみろ」と。 「自分を救う」、それは、きれいな言葉、自立した人間の考えに聞こえます。しかし、自分の知恵、力、経験、そうした自分のもてるもので何事も解決できる、という考えには、すべての人間が陥る一つの誘惑、大きな落とし穴があります。自分の問題、自分の家族、自分の仕事、自分の国が抱える問題、それは、すべて、人間が自分の力で解決できる、と考えがちです。しかし、自分を根本において生かし、支え、導く神への信頼、神への開きがなければ、人間の努力はどこかで挫折するものです。 イエスとともに十字架につけられたもう一人の犯罪人は、そのことを悟っていたのでしょうか。自分のあやまちを認め、イエスに懇願します、「あなたの御国においでになるとき、わたしを思い出してください」。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。イエスは、人を救いに導くだけでなく、自ら、主である神にすべてを委ねる僕として、生涯を全うされました。それこそが、神が求めておられた、まことの「イスラエルの王」の姿なのです。 現代の教会にとって、牧者として、イエスの姿をもっとも明白な形で示される教皇フランシスコは、わたしたちに何を語っておられるでしょうか。すでに語られた多くの言葉、そして、その振舞いから、教皇が、それまでとは違う、僕としての姿を全世界に示しておられることは疑うことができません。貧しさに徹し、人々の苦しみに心を開き、少しでもそれに寄り添い、支えようと、イエスが生きられた「王の道」を、教皇自ら生き抜いておられます。このことを感謝の内に心に留め、少しでも、それに倣う恵みを、一人一人のため、日本の教会全体のために、共にお祈りいたしましょう。(S.T.)

年間第三十三主日C年(11/16)

祈る花:Inoruhana

自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。 2テサロニケ3:12 🌸 第一朗読 (マラキ3:19-20a) マラキの預言19見よ、その日が来る炉のように燃える日が。高慢な者、悪を行う者はすべてわらのようになる。到来するその日は、と万軍の主は言われる。彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。20しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。 🌸 答唱詩編 詩編98 典149 ③④ 遠く地の果てまで、すべての者が神の救いを見た。 世界よ、神に向かって喜びの声をあげ、賛美の歌で神をほめよ。たて琴をかなでて、神をたたえ、その調べに合わせてほめ歌え。 ラッパと角笛を吹き、神の前で喜びの声をあげよ。世界とそこに住む者は神の前に喜び歌え。 🌸 第二朗読 (二テサロニケ3:7-12) 使徒パウロテサロニケの教会への手紙 7〔皆さん、あなたがたは、〕わたしたちにどのように倣えばよいか、よく知っています。わたしたちは、そちらにいたとき、怠惰な生活をしませんでした。 8また、だれからもパンをただでもらって食べたりはしませんでした。むしろ、だれにも負担をかけまいと、夜昼大変苦労して、働き続けたのです。 9援助を受ける権利がわたしたちになかったからではなく、あなたがたがわたしたちに倣うように、身をもって模範を示すためでした。 10実際、あなたがたのもとにいたとき、わたしたちは、「働きたくない者は、食べてはならない」と命じていました。 11ところが、聞くところによると、あなたがたの中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです。 12そのような者たちに、わたしたちは主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。 アレルヤ唱 典274 33C アレルヤ、アレルヤ。恐れずに頭を上げなさい。あなたがたの救いは近づいている。アレルヤ、アレルヤ。 🌸 福音朗読 (ルカ21:5-19) ルカによる福音 5〔そのとき、〕ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。 6「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」 7そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」 8イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。 9戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」 10そして更に、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。 11そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。 12しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。 13それはあなたがたにとって証しをする機会となる。 14だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。 15どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。 16あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。 17また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。 18しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。 19忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」 I 🌸 分かち合い  今年も、いよいよ大詰めが近づいてきました。年間最後の主日で、来週は王であるキリストの祭日、そして、翌週から待降節に入ります。 今日の福音では、イエスが、ガリラヤからの旅の目的地であるエルサレムに入り、一連の説教をされた後、いよいよ終末(世の終わり)について語られた言葉が読まれました。ヘロデによって、何十年もかけてなされた大修復工事が終わって、燦然と輝く神殿を前にして人々が感嘆の言葉を発していたとき、イエスは言われます、「あなたがたはこれらの物に見とれているが、ひとつの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る、」と。事実、それから、40年も経たない紀元70年、ローマ軍によって神殿をはじめエルサレムの町全体が破壊され、灰燼に帰すとはだれが想像したでしょうか。 しかし、イエスは、エルサレムの滅亡だけでなく、世界全体に及ぶ、物理的、また、人的災害について語られます。「戦争や暴動のことを聞いてもおびえてはならない。」イエスの名を騙ったり、世の終わりが近づいた、とか言うことを聞いても、信じてはいけない。戦争や地震、飢饉や疫病、天に現れる大きなしるし等、自然界の動揺が、あちこちに現れようとも、驚いてはならない、と。それに加えて、イエスに従うものに様々な苦しみが襲ってくる。ユダヤ人の会堂から追放され、王や総督の前にまで連れて行かれる。しかし、それは、キリストを証しする貴重な機会となる、と。 自然界の動揺と、人間世界の争乱、それとキリストに従う者が受ける迫害がどのように結びつくのか、自分にとっては、長い間謎でした。しかし、聖書を貫く思想をゆっくり考えてみれば、そこには、壮大なビジョンがあることに気づかされます。聖書のはじめに記されたように、この世界とそこに存在するものは、すべて、神によって、時間の中で、時間と共にあるものとして造られました。いつか始まったものには、必ず終わりの時が来るのです。自然もそこに住む人間も例外なく。そうした世界に、神の子が人となり、いつか終わりが来る人間と同じように死を味わわれました。その生と死を通して、すべてを造られた神がいかなる方であるか、造られたものとして人間はいかに生きるべきかを教えられたのです。キリストに従う決意をした弟子たちも、この世にあって、この世を超える方を証しする使命をいただきました。何と壮大な、時間と空間を包み込むビジョンでしょうか。 今日の第一朗読では、マラキの預言が読まれました。預言者の系列の最後に来る預言で、紀元前5世紀前半、捕囚から帰還して、神殿を再建し、国を復興させ、いよいよ、という時ですが、実際は、様々な問題が発生し、イスラエルは収拾の難しい状況に置かれていました。そうした状況の上に、預言者は、神が裁きを行うと宣言します。「その日が来る。高慢な者、悪を行う者はすべてわらのようになる。到来する日は、彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある」と。 人間が作りだすもの、そして、人間を取り巻く、人間が信頼を置いているものは、いつかすべて終わりが来ます。神殿も、大聖堂も、かつて栄華をほこった名城も、そして、現代の高層ビルも。その中で、変わらないもの、永遠なるものを求めて生きること、そのような信仰者の態度が、今も、そしてこれからも試されます。 どれほど立派で、人々の驚嘆の的になっていても、人間が作りだしたものには、終わる時が来る。人間が住む、この自然環境も、そして、人間が生み出したこの世の王国も、いつか滅びる時が来る。その中で、滅びぬものを求める心があるか、それが人間に試される。 イエスは言われました、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びることがない」(マタイ24.35)と。この言葉を深く味わい、一層その意味に適った生き方が出来るよう、主の導きを祈ろう。(S.T)

ラテラン教会の献堂 祝日(11/9)

祈る花:Inoruhana

あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす エゼキエルの預言  1彼はわたしを神殿の入り口に連れ戻した。すると見よ、水が神殿の敷居の下から湧き上がって、東の方へ流れていた。神殿の正面は東に向いていた。水は祭壇の南側から出て神殿の南壁の下を流れていた。 2彼はわたしを北の門から外へ回らせ、東に向かう外の門に導いた。見よ、水は南壁から流れていた。 8彼はわたしに言った。「これらの水は東の地域へ流れ、アラバに下り、海、すなわち汚れた海に入って行く。すると、その水はきれいになる。 9川が流れて行く所ではどこでも、群がるすべての生き物は生き返り、魚も非常に多くなる。この水が流れる所では、水がきれいになるからである。この川が流れる所では、すべてのものが生き返る。  12川のほとり、その岸には、こちら側にもあちら側にも、あらゆる果樹が大きくなり、葉は枯れず、果実は絶えることなく、月ごとに実をつける。水が聖所から流れ出るからである。その果実は食用となり、葉は薬用となる。」 答:しあわせな人、神をおそれ、主の道を歩む者。 すべてを治められる神よ、あなたの住まいはうるわしい。わたしの魂は主の庭を慕い、心とからだは生ける神にあこがれる。 【答】 万軍の主、わたしたちの神よ、あなたの祭壇のきわに、すずめさえすみかを見つけ、つばめも巣を作ってひなを育てる。 【答】 神よ、あなたによってふるいたち、巡礼を志す人は、かれた谷を通り、そこを泉に変え、はじめの雨がそこを祝福でおおう。 【答】 使徒パウロのコリントの教会への手紙 9〔皆さん、〕神の建物なのです。10わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。 11イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。 16あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。 17神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。 アレルヤ唱 典276(ラテラン献堂) アレルヤ、アレルヤ。この場所をわたしは選び、聖なるものとした。ここにいつまでもわたしの名をとどめるために。アレルヤ、アレルヤ。 ヨハネによる福音  13ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。 14そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。 15イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、 16鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」 17弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。 18ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。 19イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」 20それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。 21イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。 22イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。  16世紀の画家エル・グレコが描いたような、神殿でのイエスの激しい行動はすべての福音書に記されているが、ヨハネだけは、受難の前ではなく、公生活のはじめのこととして記している。それが、イエスの生涯が目指していたことの象徴であると、ヨハネはとらえていたのだろう。 イエスは、当時の神殿での礼拝に必要な犠牲の売買、そのための両替そのものを否定しているのではなく、むしろ、そうした偽善にみちた礼拝行為を正当化する宗教指導者の姿勢そのものを批判しておられたのではないか。だからこそ、イエスは、「こんなことをするからには、どんなしるしをみせるつもりか」と問われたとき、「この神殿を壊してみよ。三日で立て直してみせる」と言われた。ユダヤ人たちは、そこに聳えたつ壮麗な神殿、ヘロデ大王によって始められ、修復作業がまだ完了していない、石の神殿のことしか考えていなかったが、イエスは、自らの死と復活によって生まれる新しい神殿のことを考えておられた。 聖パウロは、コリントの教会への手紙の中で言う、「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちのうちに住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです」と。この新しい神殿に生きるわたしたちも、目に見える、人の手で造られた神殿を建てようとの誘惑から完全に自由になることはできない。日々、主の御体をいただいて清められ、霊による祈りをささげる真の神殿となるよう祈ろう。(S.T.)

諸聖人 祭日(11/1)

祈る花:Inoruhana

義のために迫害される人々は、幸いである  ヨハネの黙示  2わたし〔ヨハネ〕はまた、もう一人の天使が生ける神の刻印を持って、太陽の出る方角から上って来るのを見た。この天使は、大地と海とを損なうことを許されている四人の天使に、大声で呼びかけて、 3こう言った。「我々が、神の僕たちの額に刻印を押してしまうまでは、大地も海も木も損なってはならない。」 4わたしは、刻印を押された人々の数を聞いた。それは十四万四千人で、イスラエルの子らの全部族の中から、刻印を押されていた。 9この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、 10大声でこう叫んだ。 「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、 小羊とのものである。」 11また、天使たちは皆、玉座、長老たち、そして四つの生き物を囲んで立っていたが、玉座の前にひれ伏し、神を礼拝して、 12こう言った。 「アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、 誉れ、力、威力が、 世々限りなくわたしたちの神にありますように、 アーメン。」 13すると、長老の一人がわたしに問いかけた。「この白い衣を着た者たちは、だれか。また、どこから来たのか。」 14そこで、わたしが、「わたしの主よ、それはあなたの方がご存じです」と答えると、長老はまた、わたしに言った。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。 門よ、とびらを開け、永遠の戸よ、上がれ。栄光の王が入る。 地とそこにあるもの、世界とそこに住むものは神のもの。神は海に地の基をすえ、水の上に固められた。 だれが神の山に登れよう。だれが聖所に立てよう。それは手に汚れなく、心の清いひと、むなしいことに心を向けず、いつわりを口にしないひと。 その人は神に祝福され、救いの恵みを受ける。彼はヤコブの一族、神を求め、その顔を慕う。 使徒ヨハネの手紙  1〔愛する皆さん、〕御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。 2愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。 3御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。 アレルヤ唱 典276(諸聖人) アレルヤ、アレルヤ。労苦して重荷を負っている者はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを回復させよう。アレルヤ、アレルヤ。 マタイによる福音  1〔そのとき、〕イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。 2そこで、イエスは口を開き、教えられた。幸い 3「心の貧しい人々は、幸いである、 天の国はその人たちのものである。 4悲しむ人々は、幸いである、 その人たちは慰められる。 5柔和な人々は、幸いである、 その人たちは地を受け継ぐ。 6義に飢え渇く人々は、幸いである、 その人たちは満たされる。 7憐れみ深い人々は、幸いである、 その人たちは憐れみを受ける。 8心の清い人々は、幸いである、 その人たちは神を見る。 9平和を実現する人々は、幸いである、 その人たちは神の子と呼ばれる。 10義のために迫害される人々は、幸いである、 天の国はその人たちのものである。 11わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。 12喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。  教会の暦には、年間を通して、多数の聖人の祝日や記念日があるが、今日祝う「諸聖人の祭日」は、教会が「聖人」と認めたすべての人を、賛美と感謝の心をもって記念する日である。先日、韓国で大変な雑踏事故が起きたが、実は、彼らが集まったハロウィーン(All Hallows’Eve)は、本来、この諸聖人の祝日の前夜の意味である。 諸聖人の祝日は、使徒や殉教者を記念する祝日として始められたが、殉教者に限らず、キリストに従って、生前からその傑出した徳によって「聖人」として尊敬された人、人々への奉仕や宣教に捧げつくした人等、教会が公式に聖人として認めた人々をたたえ、神に感謝と賛美を捧げる日である。日本の教会にも、多くの殉教者が聖人の列に加えられている。 聖人たちは、様々な民族、身分、年齢、状況の中で、神の招きに自らを開き、応えていったという共通点があるが、その一人一人の生き方を知れば知るほど、人並外れた心の広さ、神に仕える熱意、人々への惜しみない愛に感動させられる。天の栄光に挙げられた聖人たちは、現在を生きる信仰者の模範であり、また、神のもとに憩われる力強い執り成し手である。 福音は、山上の説教からの言葉だが、真の「幸い」が、人間が考える「しあわせ」と違い、もっぱら自らを空しくし、神にすべてを委ねることからくることを、聖人たちの生き方を通して悟り、それを目指して生きる恵みを祈ろう。(S.T.)

年間第三十主日C年(10/26)

祈る花:Inoruhana

だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる シラ書  15主は裁く方であり、人を偏り見られることはないからだ。16貧しいからといって主はえこひいきされないが、虐げられている者の祈りを聞き入れられる。17主はみなしごの願いを無視されず、やもめの訴える苦情を顧みられる。20御旨に従って主に仕える人は受け入れられ、その祈りは雲にまで届く。21 謙虚な人の祈りは、雲を突き抜けて行き、それが主に届くまで、彼は慰めを得ない。彼は祈り続ける。いと高き方が彼を訪れ、22正しい人々のために裁きをなし、正義を行われるときまで。 主を仰ぎ見て、光を受けよう。主が訪れる人の顔は輝く。 主をたたえよう、明け暮れ賛美をくちにして。主はわたしたちの口のほこり、苦しむときの心のよろこび。 主のまなざしは正しいひとに、耳は彼らのさけびに。主は正しい人の声を聞き、悩みの中から救ってくださる。 主はしいたげにあう者のそばにおられ、失意の人をささえ、主はそのしもべの魂をあがない、より頼む人を滅びからすくわれる。 使徒パウロのテモテへの手紙  6〔愛する者よ、〕わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。 7わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。 8今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。 16わたしの最初の弁明のときには、だれも助けてくれず、皆わたしを見捨てました。彼らにその責めが負わされませんように。 17しかし、わたしを通して福音があまねく宣べ伝えられ、すべての民族がそれを聞くようになるために、主はわたしのそばにいて、力づけてくださいました。そして、わたしは獅子の口から救われました。 18主はわたしをすべての悪い業から助け出し、天にある御自分の国へ救い入れてくださいます。主に栄光が世々限りなくありますように、アーメン。 アレルヤ唱 典273 30C アレルヤ、アレルヤ。神はキリストのうちに世をご自分に和解させ、和解のことばをわたしたちにゆだねられた。アレルヤ、アレルヤ。 ルカによる福音 9〔そのとき、〕自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。 10「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。 11ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。 12わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』 13ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』 14言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」  10月も後半になり、すっかり秋の気配が漂うようになりました。運動会も終わり、プロ野球もシーズンを終えましたが、スポーツ好きな日本人には、まだまだ、話題がなくなりません。今月の第二朗読では、聖パウロの手紙が読まれています。ユダヤ人でありながら、ギリシャ文化圏に育った聖パウロは、ときどき、信仰を競技場で走る人にたとえています。 ユダヤ人は元来、スポーツとはあまり縁がなかったようですが、律法を守ることに関して言えば、他人に負けない、引けをとらないように生きること、それが自分たちの誇りだったようです。「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。」若い時を振り返るパウロの言葉に、そんな雰囲気が読みとれます。今日登場するファリサイ派の人と税吏の話もそうしたことを背景に読んだらどうでしょうか。 イエスの言葉は、たとえ話なので、多少誇張があるかもしれませんが、ファリサイ派の人の言いぶりには、どこか、他者との比較、さらには、優越意識が感じられます。「わたしは、ほかの人のように、奪い取るもの、不正な者、姦通を犯す者でなく、徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」 人間は、とかく、他人と比較して自分を評価し位置づけようとします。わたしたちが生きる社会も、スポーツに限らず、いろいろな面で人を競わせ、評価し、序列化しようとします。それは、人間が自分を客観的にとらえ、より高い目標に向かって努力する刺激を与えるもので、一概に否定することはできません。しかし、それがすべてとなり、人間のそのものの評価となると弊害も少なくありません。勝つためには、手段を選ばない、という間違った考えを生む危険があります。 神に選ばれた民、イスラエルの間にも、そうした傾向が少なからずあったことは、ファリサイ派の言動から推し量ることができます。律法を守ること、掟の道を歩むことで、正しいもの、神に喜ばれるものとなり、律法を守ることのできない者、掟の道から外れる者を罪人として裁いていたのです。今日のたとえに出るファリサイ派の人は、まさにそうした人の典型と言ってよいでしょう。 しかし、イエスは、彼らと対照的に、掟を守ることができない、自分は罪人だとの自覚をもって祈る徴税人を神は「義とされた」と言われます。「遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら『神様、罪人のわたしを憐れんでください』、と言った徴税人を「へりくだるもの」として、称揚されたのです。 そこには、価値観の大きな転換があります。掟を守ることによって、自分の正しさを誇りとする者に対して、自分の罪深さを認め、神に憐みをこう者を良しとする、新しい見方です。ルカの福音の中で、珠玉のように輝く、「放蕩息子のたとえ」も、まさに、自分の罪深さを認め、赦しを乞い、悔い改めるものを良しとされる、神の憐みの愛を教えるものです。 ただ、忘れてならないことは、そうした自らを正しいものと自認する者を神がお見捨てになったかと言うと、決してそうでないことも放蕩息子のたとえの父親は教えています。放蕩に身をやつし、回心して家に戻って来た弟を受け入れることのできなかった兄に対しても、父親は、愛の眼差しを向けます。この父親のように、自らの正しさを誇りに思う者をも、神は回心へと招いてくださるのです。 「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」、その中に、わたしたちも含まれているかもしれません。自らの小ささ、至らなさ、罪深さを、新たな心で悟り、へりくだって主に祈る恵みを願いましょう。(S.T.)

年間第二十九主日C年(10/19)

祈る花:Inoruhana

聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、 出エジプト記 8アマレクがレフィディムに来てイスラエルと戦ったとき、 9モーセはヨシュアに言った。「男子を選び出し、アマレクとの戦いに出陣させるがよい。明日、わたしは神の杖を手に持って、丘の頂に立つ。」 10ヨシュアは、モーセの命じたとおりに実行し、アマレクと戦った。モーセとアロン、そしてフルは丘の頂に登った。 11モーセが手を上げている間、イスラエルは優勢になり、手を下ろすと、アマレクが優勢になった。 12モーセの手が重くなったので、アロンとフルは石を持って来てモーセの下に置いた。モーセはその上に座り、アロンとフルはモーセの両側に立って、彼の手を支えた。その手は、日の沈むまで、しっかりと上げられていた。 13ヨシュアは、アマレクとその民を剣にかけて打ち破った。 神よ、あなたの顔の光をわたしたちの上に照らしてください。 神はおまえの足を堅く立て、まどろむことなくまもられる。イスラエルを守るかたは、眠ることもまどろむこともない。 神はおまえのまもり。そのかげはおまえをおおう。昼は太陽に打たれることなく、夜は月に打たれることもない。 神はすべての悪からおまえをまもり、いのちをささえられる。神はおまえの旅路をまもられる、今より、とこしえに。 使徒パウロのテモテへの手紙 14〔愛する者よ、〕自分が学んで確信したことから離れてはなりません。あなたは、それをだれから学んだかを知っており、 15また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。 16聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。 17こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。 1神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。 2御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。 アレルヤ唱 典270 29C アレルヤ、アレルヤ。神のことばは生きていて力があり、心の思いと計画をわきまえる。アレルヤ、アレルヤ。 ルカによる福音 1〔そのとき、〕イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。 2「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。 3ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。 4裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。 5しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」 6それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。 7まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。 8言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」  「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」。ルカの福音には、祈りについての言葉がよく出るし、主イエスが大事な場面で必ず祈っておられたことも記す。公生活も次第に終わりが近づいた時点で語られた今日の言葉は何を語っているのだろう。 「やもめと裁判官」のたとえ、と題されているが、聖書の中で、やもめは社会の中で最も弱い立場に置かれたものとして、旧約聖書にも度々登場する。「孤児、やもめ、外国からの寄留者」を大切にするようにという言葉は、律法や預言者の言葉に繰り返し登場する。しかし、現実には、彼らの弱さに付け込んで、様々な不正を働く人間、さらには裁判官がいた(イザヤ10.1∼2)ことも事実のようだ。そうした裁判官に代わって、神自らお裁きになることを、詩編は語る、「とこしえにまことを守られる主は虐げられている人のために裁きをし、飢えている人にパンをお与えになる。」(詩146.7)、と。 様々な苦しみに悩むやもめは裁判官に訴えるが、彼は取り合おうとしない。しかし、「うるさくてかなわないから、彼女のために裁判してやろう」と言う。そんなたとえを引き合いに、主は言われる、「神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。」と。 ルカがこうした言葉を記したのは、主イエスの十字架上の死、そして、復活後、数十年が経った1世紀も終わりが近づいた頃のこと。教会の発展の基礎が築かれた時代とはいえ、実際には、同胞ユダヤ人からの迫害によりエルサレムを追われ、さらには、新しい権力機構、ローマ帝国の支配下にあって、自分たちの信仰を公言し、神の国の到来を確信するにはほど遠い状況だったのではないか。 当初、人々が抱いていた世の終わり(終末)が近いという考えは、否定されたとはいえ、イエスを信じ、イエスに従った自分たちの将来はどうなるのか、という素朴な不安・恐れがキリスト者の間に広まっていたとしても不思議ではない。そのような状況の中で、イエスの言葉は大きな支えと励ましになったのではないか。「気を落とさずに絶えず祈りなさい」。 わたしたちが生きる現代、人類が抱えている問題はかつて以上に大きく、深く、容易な解決の見えないものばかりに思われる。以前からあった国家や民族間の緊張・紛争に加え、ウクライナで突然始まった想像を超える戦争の悲惨な現実、そして、東アジアの隣国から迫られる緊張。そして、フランシスコ教皇が、近年の回勅「ラウダ―ト・シ」で言及される地球温暖化の問題、さらには、最新の回勅「兄弟の皆さん」で触れられる世界全体に及ぶ経済格差、貧困、飢餓の問題等々。また、わたしたち自身が日々直面する家族の問題、仕事上の問題等。キリストを信じ、すべてをキリストに託したわたしたちも、人間の無力さやるせなさを感じ、時に、希望を失い、呆然自失に陥ることも少なくないかもしれない。しかし、主は言われる、「気を落とさず、祈りなさい」と。 エジプトの奴隷状態から解放され、約束の地に向かうイスラエルの前に立ちはだかるアマレク人との戦い。モーセが手を上げている間=神に祈っている間、イスラエルは優勢となり、手を下ろすとアマレクが優勢になった、と第一朗読で読まれた「出エジプト記」は記します。困難を乗り越えることができたのは、自分たちの力ではなく、神への祈りがあってのことです。 世を去る時が近づいたことを知ったパウロは、愛する弟子テモテに書き送ります、「神の前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます、御言葉を宣べ伝えなさい。」と。 これは、今の時代に生きるわたしたちにも語られた言葉です。「折が良くても悪くても励みなさい。」御言葉を宣べ伝える、それは、主イエスへの信仰を、確信をもって、人々の前で生きることです。どのような状況に置かれても、わたしたちが、自分の力や知恵に頼って生きるのではなく、神がわたしたちを支え、導き、生かして下さることを行動をもって、生き方を通して、人々に示すことです。 わたしたち、キリスト者の存在意義は、それがどんなに小さい働きに見えるとしても、この人間の思い通りにならない現実の中に、あの復活された主が生き、働いておられることを告げ知らせることだと、あらためて悟る恵みを祈ろう。(S.T.)

年間第二十八主日C年(10/12)

あなたの信仰があなたを救った  列王記 14〔その日、シリアの〕ナアマンは神の人の言葉どおりに下って行って、ヨルダンに七度身を浸した。彼の体は元に戻り、小さい子供の体のようになり、清くなった。 15彼は随員全員を連れて神の人のところに引き返し、その前に来て立った。「イスラエルのほか、この世界のどこにも神はおられないことが分かりました。今この僕からの贈り物をお受け取りください。」 16神の人は、「わたしの仕えている主は生きておられる。わたしは受け取らない」と辞退した。ナアマンは彼に強いて受け取らせようとしたが、彼は断った。 17ナアマンは言った。「それなら、らば二頭に負わせることができるほどの土をこの僕にください。僕は今後、主以外の他の神々に焼き尽くす献げ物やその他のいけにえをささげることはしません。 遠く地の果てまで、すべての者が神の救いを見た。 新しい歌を神にうたえ。神は不思議なわざを行われた。神の偉大な右の手、そのとうとい腕は救いの力。 神は救いをしめし、諸国の民に正義を現された。いつくしみとまことをもって、イスラエルに心を留められる。 世界よ、神に向かって喜びの声をあげ、賛美の歌で神をほめよ。たて琴をかなでて神をたたえ、その調べに合わせてほめ歌え。 使徒パウロのテモテへの手紙   8〔愛する者よ、〕イエス・キリストのことを思い起こしなさい。わたしの宣べ伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです。 9この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません。 10だから、わたしは、選ばれた人々のために、あらゆることを耐え忍んでいます。彼らもキリスト・イエスによる救いを永遠の栄光と共に得るためです。 11次の言葉は真実です。「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。12耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる。キリストを否むなら、キリストもわたしたちを否まれる。13わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を否むことができないからである。」 アレルヤ唱 典273 28C アレルヤ、アレルヤ。すべてについて感謝しなさい。神はキリスト・イエスのうちにあって、あなたがたにこれを望んでおられる。アレルヤ、アレルヤ。 ルカによる福音 11イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。 12ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、 13声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。 14イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。 15その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。 16そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。 17そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。 18この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」 19それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」  昨日は、変化の激しい天気が続く中で、暑くもなく寒くもない、絶好の天気のもとで、天使幼稚園の運動会が予定通り開催でき、ほっとしております。大きな恵みをいただいたわたしたちに、今日のみことばは何を語っているでしょうか。 今日の福音は、皆さんよくご存じの、重い皮膚病(現代では、その多くはハンセン病)を癒していただいた10人の人の話しです。現代、多くの国では、すぐれた治療薬の開発により、ほとんど罹患者はみられなくなりましたが、昔は、日本でも非常に恐れられ、その存在が抹殺されたような状況で生きることを強いられる病気でした。イエスは、その活動の始めから、そうした病気を患っている人に近づき、いやしの恵みを与えられたことがどの福音書にも記されています。 今日のルカだけが記している話では、10人の病者が、イエスに近づき、「先生、わたしたちを憐れんでください」と、遠くから叫んだと記しています。感染を恐れて家族からも切り離されてみじめな状態で日々を送っていた人々にとって、不思議な力をもっていたイエスは、大きな希望であったに違いありません。イエスは、彼らに近づき、「祭司たちに体を見せなさい」と言われます。万一、その病気が癒された場合には、祭司に体を見せ、回復を確認してもらうことが、律法によって定められていました。そして、そこへ行く途中、彼らの病気は去り、いやされたのです。 しかし、それを知って、神を賛美しながらイエスのもとに戻り、足元にひれ伏して感謝したのは、ただ一人、しかも、(ユダヤ人と関係のよくなかった)サマリア人だった、とルカは記します。他の9人は何をしたのでしょうか。回復を認めてもらい、健康な人間として人々との交わりに戻るために、祭司のところに行ったかもしれません。その戻って来たサマリア人にイエスは言われます、「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と。 病気の癒しは、神の特別な恵みです。しかし、その恵みがどこから来たのか、それを悟るのは、その人の信仰によるものです。この感謝するために戻って来たサマリア人は、ただ、自分の健康の回復を喜ぶだけでなく、そのいやしが単なる偶然、あるいは幸運ではなく、まさに、神の業であること、イエスという方を通してなされた神のいつくしみのわざであることを即座に悟ったのです。感謝の行為は、まさに、その神への信仰の表れなのです。 第一朗読(列王記)に記されたシリアの王の軍司令官、ナアマンは、預言者エリシャを通して、同じ病気から癒されたことを、神の業と認識することができました。彼も神の業を感得するセンス、感受性をもっていたのです。イエスは、この出来事を、ご自分の説教(ルカ4章)の中でも触れておられます。 人間は、とかく、自分に与えられているもの、人からしていただいていることを当然とし、感謝することを忘れます。それは、受けた恵みにだけ思いが向かい、それを与える人、さらには、すべてのよいものの与え主である神への思いが欠けているからです。一人一人の健康のことだけでなく、現代人が受けている様々な恩恵、都会生活の中で当然と思われている、電気、水道、ガス、交通網、情報、そうしたものが、どこから来るか、今一度考えてみる必要があるのではないでしょうか。コロナ禍の不自由な生活の中で、そうした点について、たびたび考えさせられましたが、たとえ、コロナが終息し、かつての状況に戻ったとしても、感謝の心を忘れないよう心掛けましょう。 今年もまた、猛烈な台風や集中豪雨によって、大きな被害を受け、容易に傷が癒されない方がたくさんおられます。さらには、突然の隣国からの攻撃により、家族も財産も一瞬に奪われ、悲惨な状況に追い込まれた人々のことも思い起しましょう。そして、平安のうちに生きることを許されていることを感謝しながら、同時に、わたしたちが同じ地球に、同じ人間社会に生きることを思い、いただいている様々な恵みに感謝し、そうしたものの与え主である神に感謝と賛美を捧げ、それに日々お応えすることができるよう願いながらミサを続けましょう。(S.T.)

年間第二十七主日C年(10/5)

祈る花:Inoruhana

わたしどもは取るに足りない僕です。 ハバククの預言2主よ、わたしが助けを求めて叫んでいるのにいつまで、あなたは聞いてくださらないのか。わたしが、あなたに「不法」と訴えているのにあなたは助けてくださらない。3どうして、あなたはわたしに災いを見させ労苦に目を留めさせられるのか。暴虐と不法がわたしの前にあり争いが起こり、いさかいが持ち上がっている。2主はわたしに答えて、言われた。「幻を書き記せ。走りながらでも読めるように板の上にはっきりと記せ。3定められた時のためにもうひとつの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。4見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」 神に向かって喜び歌い、感謝の歌をささげよう。 神に向かって喜びうたい、救いの岩に声をあげよう。感謝に満ちてみ前に進み、楽の音に合わせ神をたたえよう。 海は神のもの、神に造られたもの。陸も神のもの、神に形造られたもの。身を低くして伏し拝もう、わたしたちを造られた神の前に。 神は、わたしたちの神。わたしたちは神の民、そのまきばのひつじ。きょう、神の声を聞くなら、神に心を閉じてはならない。  使徒パウロのテモテへの手紙 6〔愛する者よ、〕わたしが手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます。 7神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。 8だから、わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください。 13キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい。 14あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。 アレルヤ唱 典270 27C アレルヤ、アレルヤ。あなたがたに宣べ伝えられた福音は、永遠にとどまる神のことば。アレルヤ、アレルヤ。 ルカによる福音 5使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、 6主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。 7あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。 8むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。 9命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。 10あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」   今日のみ言葉には、「信仰」という言葉が繰り返し出てきます。福音では、使徒たちが「わたしどもの信仰を増してください」とイエスに願い、第一朗読のハバククの預言では、「神に従う人は信仰によって生きる」とあり、第二朗読では、パウロは、愛するテモテに「信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい」と記しています。 洗礼によって、信仰をいただいてわたしたちは、皆、神を信じて生きるものとなりましたが、どこかで、自分の信仰が弱く、不十分で、中途半端だと感じています。「信じます」と言いながら、神の力よりも、自分の力を信頼して、生きていると感じることが少なくありません。「信仰」はわたしたちキリスト者の根本的な姿勢であり、「信仰」こそが、わたしたちを人々との違いを特徴づけるものであるはずですが、実際は、それほど確信をもって、「そうだ」と言えないのが現実ではないでしょうか。 ルカ福音書の中で、使徒たちはイエスに、「わたしたちの信仰を増してください」と願います。直前に出る話では、ゆるしのことがテーマになっています。日に七回でも、「悔い改めます」、と言ってくるなら、「ゆるしてやりなさい」、というのがイエスの教えです。そんなことができるか、という思いが、使徒たちの質問になったのかもしれません。それに対してイエスは、「からし種一粒ほどの信仰があれば、桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くだろう」、と言われます。「山を動かすほどの信仰」という言葉もあります。それは、信仰の大きさではなく、信仰があるかないか、信じるか信じないか、の問題だと言っておられるようにも受け取れます。つまり、信仰というものは、条件づきではなく、手放しで、無条件で、自分を全面的に神の力に委ねることだと、言っておられるようにも、受け取れます。 第一朗読の『ハバククの預言』は、紀元前7世紀、ユダ王国の末期に活躍した預言者の言葉とされていますが、今日、あえてこの個所が選ばれたのは、最後の言葉、「神に従う人は信仰によって生きる」のためではないでしょうか。この言葉は、新約聖書、特に、聖パウロの手紙に引用されたことで、有名になりました。パウロが、その深い神学的洞察を展開した『ローマの教会への手紙』の冒頭で、彼は言います、「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は、信仰によって生きる』と書いているとおりです」(ローマ1.17)、と。その後の章やガラテヤの教会への手紙でも、繰り返し、この言葉「信仰」に触れていますが、それは、ユダヤ人が何よりも大切にしてきた「律法」の行いと対比して語っているのです。ユダヤ人は、律法を守り行うことによって、神を喜ばすことができる、神の義を得ることができる、神によって救われると信じてきました。しかし、パウロは、その大前提を否定し、人が救われるのは、律法の行いではなく、主イエス・キリスト、しかも、十字架で亡くなられたイエスを信じることによるのだと主張するのです。律法を知らず、律法を守ることのできないユダヤ人以外の人々、異邦人が救われるのは、まさに、主イエスへの信仰によることをパウロは力説するのです。プロテスタントの信仰を大きく発展させたルターの思想も、実は、この点に根拠を置いているのです。 キリスト者は、律法の行いではなく、もっぱら、主イエスへの信仰に生きるものと言われますが、はたして、律法に代わって、教会の中で行われる様々な善行、奉仕、献身、正しい生き方(祈り、秘跡、ミサへの参加、献金等)によって救われる、と思っていることはないでしょうか。「信じます」と言いながら、どこかで、自分を守り、自分の都合や条件に合わせて信じようとしていないでしょうか。リスクを取らず、安全第一で生きようとするなら、信仰の入る余地はありません。自分の行いではなく、罪深い自分を救おうとされる神への信仰によって救われることを確信し、自分の正しさを保証するものを手放し、無条件で、神の愛に自らを委ねる生き方ができますように、祈りましょう。それこそが、信仰者としてのわたしたちに求められていること、人々が暗にわたしたちに期待していることです。神ご自身がわたしたちに望んでおられることです。(S.T.)

年間第二十六主日C年(9/28)

祈る花:Inoruhana

神に誉れと永遠の支配がありますように アモスの預言〔主は言われる。〕1災いだ、シオンに安住しサマリアの山で安逸をむさぼる者らは。4お前たちは象牙の寝台に横たわり長いすに寝そべり羊の群れから小羊を取り牛舎から子牛を取って宴を開き5竪琴の音に合わせて歌に興じダビデのように楽器を考え出す。6大杯でぶどう酒を飲み最高の香油を身に注ぐ。しかし、ヨセフの破滅に心を痛めることがない。7それゆえ、今や彼らは捕囚の列の先頭を行き寝そべって酒宴を楽しむことはなくなる。 いのちあるすべてのものは、神をたたえよ。 神はとこしえにまことをしめし、貧しい人のためにさばきをおこない、飢えかわく人にかてをめぐみ、捕らわれびとを解放される。 神は見えない人の目をひらき、従う人をあいされる。身寄りのない子どもとやもめをささえ、逆らう者の企てを砕かれる。 使徒パウロのテモテへの手紙 11し神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。 12信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。 13万物に命をお与えになる神の御前で、そして、ポンティオ・ピラトの面前で立派な宣言によって証しをなさったキリスト・イエスの御前で、あなたに命じます。 14わたしたちの主イエス・キリストが再び来られるときまで、おちどなく、非難されないように、この掟を守りなさい。 15神は、定められた時にキリストを現してくださいます。神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、 16唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です。この神に誉れと永遠の支配がありますように、アーメン。 アレルヤ唱 典273 26C アレルヤ、アレルヤ。イエス・キリストは富んでおられたのに、貧しくなられた。あなたがたがキリストの貧しさによって富むように。アレルヤ、アレルヤ。 ルカによる福音 19〔そのとき、イエスはフャリサイ派の人々に言われた。〕「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。 20この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、 21その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。 22やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。 23そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。 24そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』 25しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。 26そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』 27金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。 28わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』 29しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』 30金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』 31アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」  今日の福音は、金持ちとラザロの話し。ルカは、神のいつくしみの愛を教える印象深いたとえ話を多く伝えていますが、今日の福音は、その裏返しのような、人間の冷たさ・醜さを感じさせる物語です。 贅沢に遊び暮らす金持ちが死に、門前に横たわり、残飯を頼りに生きるラザロも死ぬ。生前悪いものをもらっていたラザロはアブラハムの懐へ、金持ちは陰府の世界でもだえ苦しむ。そして、二人の間には、越えることのできない深い淵が広がる。金持ちは、自分の兄弟には、こんなひどい目に会わないように、ラザロを送ってください、とアブラハムに願うが、「兄弟たちには、モーセと預言者がある、それに聞けばよい」、とあしらわれる。それに聞かないなら、たとえ死者がよみがえっても、それに聞くことはないだろう、とも言われる。 この話を読んで気づくことは、金持ちが特段、悪人だったということではなく、また、ラザロも、特に善人だったということでもありません。ごくありふれた、どの時代にも、どの世界にもありそうな経済格差が生み出す悲しい現実がそこにあります。ただ、言えることは、金持ちが毎日目にしていた門前のラザロに無関心で、それによって、彼の死後の運命が決まった、ということです。 これは、人々に対する戒め、警告の物語です。もし、身近にいる、貧しい人、悩める人、病める人に、心を閉じていれば、この金持ちのような状態を招くかもしれない。逆に、たとえ、豊かさに恵まれていたとしても、悔い改めて、それを独り占めせず、人々と分かち合うことをすれば、きっと神の救いに与ることができる、ということではないでしょうか。これは、イエスの独自の教えと言うより、旧約の教え、預言者の教えの中で、繰り返し、強調されてきたことです。アブラハムの言葉にある、「モーセと預言者」という言い方は、まさにそれを表わしています。 第一朗読ではアモスの預言が読まれました。アモスは、紀元前8世紀、南北に分裂した王国が、北方の強国アッシリアの脅威にさらされていたとき、王国の指導者たちを厳しく批判した預言者です。貧しい人々の悲惨と社会に蔓延する不正を放置し、自分たちだけが安逸をむさぼる状態に、神が審判を下されることを預言します。事実30年後、アモスの預言から間もない時期に、強国アッシリアは一気に南下し、北王国イスラエルは滅ぼされ、南王国ユダもアッシリアの属国とされます。 アモスの預言には、厳しい言葉、神の審判の話が次々に出て来ますが、最後には、神の救いへの希望の言葉が記されています。事実、アッシリアの後に起きたバビロニアによって滅ぼされた南王国ユダは、国王以下、多くの民が捕囚となってバビロンでの幽囚の生活を送りますが、預言者たちが口を揃えて預言したように、ペルシャの時代になって、祖国への帰還を実現します。 貧者ラザロを放置して、この世の生を終えた金持ちに対する厳しい言葉にみちたこのたとえは、決して、神の最後的審判を告げるものではありません。あくまで、人々の回心を願い、悔い改めを喜びとする、神のいつくしみを告げるイエスの警告の言葉として聞かなければなりません。 たとえに出る金持ちは、決してわたしたちと縁遠い存在ではありません。また、門前に横たわるラザロは、わたしたちから遠く離れた存在でもありません。ごく近くにいて、その痛み・苦しみ・孤独を、無関心ゆえに見過ごしている兄弟姉妹かもしれません。今日のみ言葉を、あまりにも、自分のしあわせ・都合・仕事・休暇を優先させるあまり、兄弟姉妹の必要に目を閉ざしているわたしたちへの、いつくしみに満ちた神の言葉として受け止めることができるよう恵みを祈りましょう。(S.T.)